恥でギャーと叫びたくなることがあるらしい。これは要するに記憶が甦るたびに反復強迫的な自己処罰を行っていて、恥の事実を平然と認めるのを拒んでいるのである。自己処罰は見当違いの反省の仕方であるから、恥じるのが立派な人間とは限らないし、むしろ問題解決が出来ない人間とも言える。

自他の境界線は必要であるから、恥の感情も人間として持たねばならないのだろうが、自傷のような自己処罰は出来損ないの特徴でもあるので、克服したほうがよいと思われる。

恥の根底にあるのは他人の目線である。
たとえば誰もいないと思って変な独り言を言っていたら、それを聞かれてしまったとか、そういうことだ。

他人の恥を見てこちらが恥ずかしくなることもある。恥は瞬間的なものではなく、目撃によって事実が確定する世界の仕組みに根差している。目撃されてないものは実行されていないと言うと誇張になるだろうし、当然ながら反論を食らうのは間違いない。放火によって大惨事になったが放火魔を誰も目撃してない場合はどうなのか、という類の問題があるのは言うまでもない。とはいえ、やはり心理的には目撃者がいてこその事実である。目撃されてなければ事実として確定しない、という側面がある。だから、他人の恥をたまたま目撃してしまうと、その事実を確定する目撃者になってしまうし、時としてその恥が伝染してきて、バツの悪い思いで身悶えすることもある。

何にせよ、ギャーと叫ぶことで事実が覆るとは思えない。叫ぶよりは黙した方が賢明であろう。

人間は人間への蔑みが必要である。
変な独り言を聞かれてしまった自分を恥じるのではなく、人間を蔑まなければならない。
これは自己卑下とはまったく違うものであり、自分で自分を睥睨し、それこそ自分の問題を他人事のように突き放すのである。
自意識は人間の基本だが、これは弱めたほうがいいのである。
変な独り言を聞かれてしまった過去の自分という事実は否定できないが、心理的にはそういう自分との連続性を断ち切るしかない。







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