2018.02.19
法律に守られて生きているので
たいていの犯罪は実行可能である。警察に捕まったり死刑になってもいいなら、犯罪の実行は簡単である。であるから、われわれは法律がなければすぐに死んでしまう。あるいは法律などなくて愚連隊を組んで防御し合うとしても、そのような野蛮状態だと愚連隊への参加が必須であるし、群れから離れることも出来ない。だから、法律に守ってもらうのが平和な人間社会の大原則である。然してその平和な社会への信用として、決して武装などせずに、無防備で丸腰の状態で街を歩いているのである。このような背景があるからこそ、自分と他人に別のルールを課するのが「矛盾」と言われるのである。おそらく矛盾というのは口癖であろうし、深く考えているわけではないだろうが、ともかく、自分だけ特別扱いというルールは無効なのである。自分には殺人罪が課せられて、相手は人を殺めても無罪というのでは困る。もちろん自分が大事で他人は大事ではないというのが本音だから、自治空間ではパワハラなども普通にあるだろうが、とりあえず社会の大原則として、双方にルールが適用されるのが重要である。この相互的な契約に似つかわしくない条項を入れようとすると矛盾だとされるのである。前述したように自分だけが可愛いのが本音なのだが、そういう暴君的なアティテュードは社会のタテマエとしては認められない。個人の本音を剥き出しにして暴君になる人間もいるのだが、赤の他人を支配することはできないし、同じ密室にいる人間に限られる。なぜ密室的な自治空間で暴君が認められているのかと言えば、やはり組織において人間が平等というのはあり得ず、ヒエラルキーは当然であるし、そこから派生して自分と他人に別のルールを適用できるからだろう。この類の暴君の行為は組織の権力を体現しているものであるから、不行跡として咎めるのは容易いことではない。
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