われわれは何らかの対象を経験する骨組みを最初から持っている。これをゲシュタルトと呼んでおこう。厳密にゲシュタルト心理学をなぞるわけではないし、むしろ用語の借用なのであるが、ともかく骨組みというか枠組みが決まっている。「顔」などはゲシュタルトの典型であろうし、目と鼻と口という並びを顔として認識して、これを人生で最も大事なものとしているのである。顔とはなんぞやと言うと、やはりゲシュタルトであると答えるしかないのである。そういうまとまりとして認識することが決まっている。ここから問題となるのは、われわれが認識する主体である一方で、認識される客体でもあることだ。自分の顔を持ち、そして他人の顔を認識するとなると、つまり、認識と肉体が密接な関係にあるわけであり、設計者がいるとしか思えないわけである。そもそも動物にだって顔はあるのだし、美人という概念がどこかで生まれて、それに似付かわしい顔が生き残ったということもできるが、やはりそれだけとは思えず、認識機能と顔が同時に設計されているように見える。これは人知を超えた問題を記述しているので、いくら述べたところで結論には到達しまいが、この世にあるゲシュタルト的なもの、たとえば音楽もそうであろうが、どこかでそれが設計されて人間に授けられている気がするのである。こうやって設計設計設計設計と繰り言を述べても神には辿り着けないのだが、やはり世界にある物事は単品ではなく、ゲシュタルトというまとまりとして意味をなしているので、ただの自然淘汰では辿り着けないように思える。騙し絵というのがあるが、その欺きを見破ればゲシュタルトの先に行けるわけではなく、むしろ組合せの枠組みこそが認識の根幹ということなのである。現実で組合せを混同することは殆どないのである。組み合わせ方は決まっているので、騙し絵のような奇妙なやり方でしか混同させることは出来ないのである。組み合わせで物事を生成するゲシュタルトそのものが世界とも言えるし、顔とか音楽それ自体は決してわれわれの発案ではないので、人間はただの被造物ということなのだ。







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