2018.06.23
比喩と言葉の定義
言葉はまず単純に「あれ」とか「これ」の世界である。
「あれ」とか「これ」に名札をつけて言語体系をなしている。
それだけでは表現しづらい概念もあり、たとえば「天使」という宗教的観念は「あれが天使」というわけにはいかない。
だから、たとえば水野由結ちゃんを例示して、「あれが天使」と定義するわけである。
では、比喩の対象になるのは、天使とか、非実在的な概念だけなのかというと、もちろんそうではない。
たとえば中元すず香について「デスマスクみたいな顔」という場合、デスマスクは本当にあるので、あのドブスとデスマスクを結びつけているわけだ。
比喩というのは大雑把な等号であるから、本当の意味でイコールではないし、中元すず香の顔面とデスマスクは同一ではないが、「デスマスクみたいな」と表現することで、あの陰湿なドブス感が腑に落ちるし、わかりやすく照応するのである。
そして比喩によって、良くも悪くも、過大評価や過小評価が行われる。
「水野由結ちゃんは天使」というのなら、天使は実在しないにせよ、だいたい等号であろう。
「鞘師里保さんは天使」というのならかなりのお世辞ということになる。
「中元すず香は天使」というレベルまで来ると、お世辞の範囲を超えたでたらめである。
ともかく言葉の基本は「あれ」とか「これ」なのだが、比喩はそれらのイメージを結びつけて幅を出すのである。
われわれは森羅万象のすべてを見ているわけではなく、肉体の周辺しか見てないので、世界を類似性で理解している。
世界中のすべての猫を見てから猫という単語が理解できるのではなく、むしろほとんどの猫を見てないので、猫という言葉で世界認識を補っている。
猫という単語で世界中の猫を理解できるのか、というと、だいたい猫は似通っているし、大雑把にはできるのであろう。
猫をイメージして「あれ」とか「これ」と言い合っていれば、たぶん意味は通じている。
持ち出した比喩、あるいは類例、例え話が下手でわかりづらかったり、比喩そのものが物議を醸して議論が混乱することもある。
たとえば水野由結ちゃんは鼻筋が綺麗で特に横顔がずいぶん美人なのだが、隣のデスマスクへの配慮として、だいたいは真正面からの写真である。
これについてクレオパトラという単語を使って表現することもできるが、今ひとつしっくりとこないであろう。
クレオパトラといえば、鼻の美しさというのがパスカルの表現で定着しているが、水野由結ちゃんの鼻筋が美しいのは間違いないにしても、そこが最大の特徴というわけではない。
水野由結ちゃんの鼻はずいぶん高いのだが、クレオパトラの名前を使って表現すると、ややこしくなると思う。
水野由結ちゃんの実際の身長は160センチに近いし、かなり見映えはいいはずで、中元すず香の謀略でこれが台無しにされているのは痛ましいが、容姿を絶賛しすぎると嘘になってしまう。
水野由結ちゃんは世界史的人物ではあるが、世界史的な美人ではないし、やはりクレオパトラを引き合いに出すと、比喩が噛み合ってないということになるだろう。
というより、現実のクレオパトラが水野由結ちゃんより美人なのかどうかは疑わしいのだが、なにしろわれわれはクレオパトラの本当の外見を知らないので、想像上のクレオパトラがここでは問題となる。
比喩は正確性を意図しているとは限らず、美文調の詩歌で奇を衒った比喩を使うこともある。
文学的な遊戯である。
いっそのこと「鞘師里保さんはクレオパトラである」くらいの表現のほうが、明らかに不正確なのでむしろいいかもしれない。
「あれ」とか「これ」に名札をつけて言語体系をなしている。
それだけでは表現しづらい概念もあり、たとえば「天使」という宗教的観念は「あれが天使」というわけにはいかない。
だから、たとえば水野由結ちゃんを例示して、「あれが天使」と定義するわけである。
では、比喩の対象になるのは、天使とか、非実在的な概念だけなのかというと、もちろんそうではない。
たとえば中元すず香について「デスマスクみたいな顔」という場合、デスマスクは本当にあるので、あのドブスとデスマスクを結びつけているわけだ。
比喩というのは大雑把な等号であるから、本当の意味でイコールではないし、中元すず香の顔面とデスマスクは同一ではないが、「デスマスクみたいな」と表現することで、あの陰湿なドブス感が腑に落ちるし、わかりやすく照応するのである。
そして比喩によって、良くも悪くも、過大評価や過小評価が行われる。
「水野由結ちゃんは天使」というのなら、天使は実在しないにせよ、だいたい等号であろう。
「鞘師里保さんは天使」というのならかなりのお世辞ということになる。
「中元すず香は天使」というレベルまで来ると、お世辞の範囲を超えたでたらめである。
ともかく言葉の基本は「あれ」とか「これ」なのだが、比喩はそれらのイメージを結びつけて幅を出すのである。
われわれは森羅万象のすべてを見ているわけではなく、肉体の周辺しか見てないので、世界を類似性で理解している。
世界中のすべての猫を見てから猫という単語が理解できるのではなく、むしろほとんどの猫を見てないので、猫という言葉で世界認識を補っている。
猫という単語で世界中の猫を理解できるのか、というと、だいたい猫は似通っているし、大雑把にはできるのであろう。
猫をイメージして「あれ」とか「これ」と言い合っていれば、たぶん意味は通じている。
持ち出した比喩、あるいは類例、例え話が下手でわかりづらかったり、比喩そのものが物議を醸して議論が混乱することもある。
たとえば水野由結ちゃんは鼻筋が綺麗で特に横顔がずいぶん美人なのだが、隣のデスマスクへの配慮として、だいたいは真正面からの写真である。
これについてクレオパトラという単語を使って表現することもできるが、今ひとつしっくりとこないであろう。
クレオパトラといえば、鼻の美しさというのがパスカルの表現で定着しているが、水野由結ちゃんの鼻筋が美しいのは間違いないにしても、そこが最大の特徴というわけではない。
水野由結ちゃんの鼻はずいぶん高いのだが、クレオパトラの名前を使って表現すると、ややこしくなると思う。
水野由結ちゃんの実際の身長は160センチに近いし、かなり見映えはいいはずで、中元すず香の謀略でこれが台無しにされているのは痛ましいが、容姿を絶賛しすぎると嘘になってしまう。
水野由結ちゃんは世界史的人物ではあるが、世界史的な美人ではないし、やはりクレオパトラを引き合いに出すと、比喩が噛み合ってないということになるだろう。
というより、現実のクレオパトラが水野由結ちゃんより美人なのかどうかは疑わしいのだが、なにしろわれわれはクレオパトラの本当の外見を知らないので、想像上のクレオパトラがここでは問題となる。
比喩は正確性を意図しているとは限らず、美文調の詩歌で奇を衒った比喩を使うこともある。
文学的な遊戯である。
いっそのこと「鞘師里保さんはクレオパトラである」くらいの表現のほうが、明らかに不正確なのでむしろいいかもしれない。
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