2018.07.04

主体的な体験

われわれは対概念で考えるのが好きであり、どうしても認識と体験を分けてしまう。実際は認識も体験も同じなので一元論で語るべきなのだが、うまくフィットする言葉がない。

だから、
実行体験
認識体験
という区分けにする。

もしくは、
空想体験
想像体験

などを付け加えるのもよろしかろう。
すべては何かしらの体験であり、体験の種類があるだけである。
認識やイメージの問題として、実行体験と空想体験でさほど径庭はないのである。

殺人を実行したことのある人は稀であろうから、不穏ではあるが敢えて殺人を事例にするとして、やはり人間という生命体がいてそれを殺すという動作は現実でも空想でも同じである。
たとえばHagexが殺害された場面をわれわれは見ていないが、想像体験することはできる。
低脳先生は刃の長さが16.5センチのナイフで凶行に及んだとされるが、実物を見てなくてもその禍々しさはイメージできるし、首や胸を何度も刺したという情報も理解できる。
おそらく低能先生の実行体験とさほど差はあるまい。
殺人を実行して初めて殺人が理解できるわけではないのである。

何が言いたいのかというと、実行体験も認識体験も想像体験も空想体験も、とりあえず一元的に扱えるのである。
われわれは人間という多細胞生物として主体性を持っており、何十兆かある細胞のひとつひとつは知らんが、主体として体験するようなことはだいたい知っているわけだ。
そして、その体験性の次元しか知らないので、実行体験も認識体験も想像体験も空想体験も似たりよったりなのである。
たとえばセックスを実行体験するのと空想体験するのは快楽として大違いだが、実行体験しなくても、セックスの基本動作は人間という主体として一応は知っているわけだ。
実行体験したかどうかが人生にとっては重要だが、空想や想像でも何となく再現できるし、すべからくひとつの体験なのである。
人体を構成している何十兆の細胞はいずれも人間ではないが、それらの部品が機能して人間という主体が生まれる。われわれは人間しか知らないのである。科学的な研究で人間が感知し得ない物理現象を検出して、それを製品化したりすることもあるので、その文明の広がりも面白いところだが、なぜかわれわれは人間という主体性の体験を生きており、そして、科学を利用しつつも、精神世界と物質世界の次元の違いはミステリーなのである。







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