このあいだ読売新聞を見ていたら、四十代男性が結婚できないというテンプレ記事があった。エア取材なのか、アリバイ的に取材したのか知らないが手取り10万円かそこらで粗末な一汁一菜がやっとであり、スーパーで惣菜に半額シールが貼られてから買うのが日常だが、それでも生涯の伴侶を求めていて、結婚相談所で断られたり、婚活で失敗しているのである。この手のルポルタージュは作文だと考えて差し支えあるまいし、また、特定の人物や事件ならともかく、一般人の誰かを取材して社会を語るという形式そのものに無理があるように思う。マスメディアの病理と結論づけてもいいのだが、根本的にわれわれは一般人を均一化させるしかないのであり、「フランス人はこんなことを考えている」とか「ドイツ人はこんなことを考えている」という雑駁たる世界認識である。そもそも個々人の考えが主役なのかどうかは不明であるし、間接民主制こそが人間社会の本質であり、インターネットが登場して尚更その印象が強くなった。陳腐な社会派ルポルタージュは、われわれの世界認識の拙さと平仄を合わせているのであろうし、この限界を乗り越えることはできないし、無知の知という謙虚さに至るのが精一杯である。ともかく社会派ルポルタージュが世界を動かしているのも確かであり、たとえば子供を産めない女性について、それを欠陥と見なされることへの怒りが数多の記事で描かれたわけである。エア取材かアリバイ取材かはともかく、そういう論調が作られることで救われた人もいるであろう。産める能力があったにも関わらず羊水の腐ったババアが暴れたりしたのは副作用である。流行りのトランスジェンダーの記事となると、男性/女性という自意識へのこだわりが強く語られ、心の性別のトイレに入りたいとか首を捻る意見も見かけるが、いわば性差の強調なので、人権問題も一周して複雑になったというか、民族独立運動と似通っている。大国の民族主義は否定されて来たが、マイノリティの民族主義は肯定されるらしく、たまたま弱者になった人間が電動車椅子で突撃しているだけである。どれだけ弱くてマイノリティであるかというパワーゲームであり、誰にでも人権があるという基本原則は等閑に付されているから、次は誰が弱者として王冠を戴くかということである。われわれがトランスジェンダーに会うことは殆どないし、だいたいは無名人のルポルタージュであるし、代弁者らしきライターが作文しながらわれわれを糾弾するという、何かしらフィクション性を持った存在であり、逆に言えば、実名顔出しでカミングアウトする象徴的存在の方が説得力があり、薬害エイズの時の川田龍平などがその典型と言えるだろう。ワープアについても赤木智弘などがいるが、インパクトに欠けるのが率直なところである。この拙稿に結論があるのかというと、たぶんないし、なにしろ世の中の大半の人のことは知らんのだから、こんな具合なのである。ついでに縷々と書き綴るなら、人間は事実存在でありながらも、賽の河原で小石を積み上げるような願望と伴に生きているので、その実現していない余白にいろいろと描けてしまう。有村悠さんを高卒という事実の輪郭で認識することもできれば、東大卒になりたかったという御本人の願望を含めて有村悠だと考えることもできる。未練あってこそ人間であるし、未達成の願望も含めてわれわれは存在している。熊沢天皇にしても、そもそも天皇という概念は事実性だけの話ではあるまいし、何かしら宗教的なファンタジーを託されたものであろうし、東京大学も何かしらシンボリックな記号であろうから、有村悠さんをただの高卒として扱うよりは熊沢天皇と同じ文脈で捉えたほうが人間理解として適切であるようにも思える。







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