2018.08.24
人間関係の難民
明らかにひどい目に遭っているのに「人のせいにするな」と言われることがある。口癖なのだろうし、麻生太郎の口が勝手に動いているのと変わりないだろうが、だいたいは誰かが泣き言を訴えた時に、それを却下する台詞なのである。つまり、客観的に審理した上で、どちらに責任があるか所見を述べているのではなく、泣き言を門前払いしているのである。そもそも人間関係は自治の問題なので、他人の自治権を侵害出来ない。他人から干渉されない自治空間が自由を生み出すのである。だから部外者が関わる筋合いはないという感覚があり、そういう圏外から泣きつかれたら「人のせいにするな」という言い回しになるのである。たとえばわれわれが有村悠さんの家庭を実況見分してママンと有村悠さんの責任の度合いを審判するわけにはいかない。人間関係はひとつの独立国家であり、赤の他人が境界線を超えて内政干渉はできない。そして難民を受け入れる義理もないのである。有村悠さんには御自分で新天地を探してもらうしかないのであり、われわれの家に食客として居候させるわけにはいかない。家賃がタダみたいなボロアパートもあるだろうから、人道的な配慮をする必要もない。あるいは最低限の生活さえ覚束なければ生活保護という救済手段があるので、飢えて痩せさらばえて眼窩がくぼんだ人間にパンを与えない無慈悲とは違うし、生命の危機ではないので、われわれは人生にあぶれた人間を見捨てることに痛痒を感じない。ともかく「人のせいにするな」というのは自治権の尊重であり、こちらが境界線を超えて助ける権利も義務もないのである。プライベートな揉め事で警察が来ないことに不満を持つ人がいるが、日常的な行動をいちいち警察に監視されたら、それはそれで困る。普段から自治の利益を享受しているのだから、都合が悪くなった時だけ難民を気取るのはよくないのだろう。ここまでは親子関係を念頭に置いて話してきたが、他のことについても人間関係は密室であるし、パワハラの張本人が図々しく「人のせいにするな」と言うこともあろうが、これも自治権(自治会の権力)なのである。自治はユートピアではない。人間関係は本質的に自治会だから致し方ない。時としてわれわれは密室のような人間関係の息苦しさから脱したいと願うが、自治権を享受している側面もあるから御都合主義で社会原理を変更するわけにはいかない。自治権と自由は類語でありつつも重ならない箇所が多々あるし、自治が自由を喰らうというか、自由という目的が放ったらかしで独裁者の意のままということもあろうが、自分が不遇のときだけ国境線の向こうに助けを求めるのはよくないのであろう。有村悠さんにしてもママンの過保護から利益を受けているのだから、損失の部分だけどうにかしろと言われても困るのである。過保護の利益を捨てたらダメージが回復するわけではないので、腐敗した利益にしがみつくこともあろうが、ともかく自治だから仕方ない。無論、度を越した家庭内暴力には行政が対応するし、パワハラだって深刻さを極めれば刑事事件になり得るし、そういう重大案件については行政が粛々と対処するので、一人の人間として人道的な手助けをしなくてもよい仕組みになっている。
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