2018.09.11
平均寿命に向かった存在
どうやらわれわれの時間の分母は平均寿命であるらしい。80歳まで生きれば円満に死んだという風情であり、つまるところ80歳まで生きることで命の持ち分を使いきっているから、もはや死という悪魔が生命の膏血を啜る余地がない。平均寿命まで生きてくれると、端から見ているわれわれも、ごく自然に他人の死を受け入れられるのである。事故や自殺で若くして死ぬとなると、爺さん婆さんの恬淡とした葬式とは対照的に、痛切なものはある。赤の他人が死んで本当に悲しいかという疑問もあるし、いわばお悔やみを見せる芸として葬儀で嘘泣きして一芝居打つところもあろうが、やはり若者の死は特別なのである。われわれはロマン主義者としての側面もあるから、そのような悲劇的な死を望んでいる部分もあり、興味本位か美学か、非日常的な大文字の死に惹かれている。われわれは家族というイデオロギーを集団安全保障として守りながら生きており、家族が勝手に死んで人生設計が狂うことを防ぐためのプロパガンダを垂れ流しているのだが、命が干からびる前に死ぬという浪漫に憧れることもある。われわれの存在は社会そのものであるから、社会に義絶状を送りつけることはできない。楼上から無疵のまま地上を眺めやりたいと言っているのではなく、このディストピアで繰り広げられる地獄草紙における自らの生命を、平均寿命という分母で割って小皿に取り分けるのではなく、赫奕たる現在性に投じる刹那的な破滅性を求めているのだが、たいていは俗世間の論理に投降するしかないのである。自ら好んで生命を危険に晒しているアウトローでも親不孝という負い目はあるのだが、親不孝とは自分の親に対する感情というよりは、世間に顔向けできないということなのだ。親に申し訳ないと言いながら、本当は世間に対して申し訳ないのである。恋人は世間ではないが、親は世間である。われわれは他人の親を自分の親に準ずる存在と見なしているし、もしくは、他人の母親がわれわれを息子のように扱うこともある。これが恋人であればそういうシンボル性を投影していくことはない。何が言いたいのかというと、われわれはそこらのおばさんとも母子関係を模倣しているのであり、この母性こそがわれわれを社会に縛り付けている。もちろん父性にしても、近年は廃れつつあるが、赤の他人を息子のように扱って面倒を見るのも昔はよくあった。恋人の排他性についても、結婚して家族を作るとなれば、やはり父や母のシンボル性に蝕まれていく。三島由紀夫は東大安田講堂で全共闘と対話したときに夭折の美学について問われ、「太宰さんみたいに一緒に死んでくれる女性でもいればいいのですが」と軽口を飛ばしていたが、結局は楯の会にそれを見出したのであろうし、その紐帯は社会のノルマを超越したからこそ割腹自殺したのである。こういう世間全体への親不孝はなかなかできないことである。
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