2018.11.19
若さを失うと楽になる
われわれは後半生になるともっと勉強しておけばよかったと悔いたりするが、前半生にガリ勉しすぎて有村悠さんのようになっても困る。健全な人間になるためには青春を謳歌しなければならない。有村悠さんのようなガリ勉は、老人のような少年時代を過ごし、老人のような青年期を過ごし、そして子どものような初老の男性になっていく。これも人間性のひとつであり、誰もが周辺世界に適応してスイスイと泳いでいるわけではない。有村悠さんは東大受験のために九州の山奥で地獄のようなガリ勉をした過去があり、いわば西方浄土を想見した修験者だったから、生まれついてのドクズではないので、挫折したビルドゥングスロマンの典型とも言えるし、インチキな人間であるにもかかわらず、青春の葛藤で自壊した様子が何かしら生々しい抜け殻として文学性を持っている。東大合格後も歴史年表片手にガリ勉していればよかったのだろうが、青春という悪魔に取り憑かれて背伸びして煩悶し不登校になった経緯が、あまりにもバカバカしいことながら、その愚かしさこそ若さとして人間普遍のものに思える。東大アニメ研究会でカラオケをした時に高嶺の花の美人東大生と廊下で二人きりになって告白して面罵されたのが不登校の直接の引き金であり、これを失笑するのはたやすいにしても、まさに持たざる人間ならではの通過儀礼である。その試練を乗り越えてないのだから通過儀礼ではないのかもしれないが、通過儀礼を乗り越えられないのが人間らしさである。学問と青春は二者択一ではないはずだが、いつ使うかわからない学問と、目の前に顕現している色香はまったく違うのであろう。青春という病気に取り憑かれた若者が、いわば極左冒険主義者のように短絡的な蹶起にたどり着くこともままある。だんだん若さを失うと、きらびやかなものへの憧れもなくなり、瘴気漂う俗界にも鼻が馴染んでしまうが、若い頃は百花繚乱たる華やかさを夢見て、その輪に入るための武器を短絡的に求めるものである。若さの特権というが、その特権性と照応するように理想主義が差し迫ってくる。教父から課せられた天命のようにして理想世界を求め、かくあるべしという観念に押し潰されるのである。若さがなくなると、憑き物が落ちるように観念世界が滅亡し、記号性や象徴性を失った俗世間の実態がそのまま見えてくる。東大文学部西洋史学科を退学処分になっている有村悠さんは、ここ数年、高卒レベルの日本史の薀蓄を切り貼りしているが、疾風怒濤というべき青年期が終わり、わずかに気が長くなったのかもしれないし、こうやって遅きに失して学ぶのも人間らしさである。純然たる思想犯罪者たるには肉体の若さが必要であり、眼の前の現実とは別の光景を錯視するような感受性が必要だが、それが枯れて鈍磨するのは何らかの救いであるかもしれない。
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