2019.02.20
個人練習
劣等生がサボる連帯感とか、それとは逆に自分はこんなに頑張っているという優等生気取りとか、その誓約への疑心暗鬼として、「あいつは劣等生の誓いを破ってコソコソ勉強してるんじゃねえか」とか「あいつの優等生アピールは嘘八百だろう」という話になるわけだが、こういう思考方式は努力が苦痛だということを前提としているので、やや廃れた印象はある。努力は苦痛というのは古い固定観念であり、認識はそれなりに組み変わっている。人間が努力を嫌うのは、世の中で何かを習得するとなると集団で練習するのが基本であり、そこで恥をかくから、というのが大きな原因である。集団で同一の訓練をするとなると、どうしても要領の良し悪しが出てきて、出来ない人間が笑われることになる。衆人環視の中で落ちこぼれるのが惨めなのである。出来損ないが晒し者になるのは体育が顕著であるが、数学や物理だって出来ないことが恥になる時はある。だから授業で恥をかかないように、それ以外で個人練習しようという発想になるわけだが、個人練習は指導者抜きでやるので、いわゆる自己流である。優れた指導者に出会うことも必要だが、それを雇うお値段も高いので、ごく普通には学習塾あたりになるだろうが、塾で授業を受ければそれで終わりというわけでもない。一人で個人練習できる資質も重要である。個人練習を「影で努力していて素晴らしい」と賛美する事もできるが、苦しいトレーニングをしているから偉いという意味で言っているのなら有象無象の俗的発想である。個人練習できる資質自体に価値がある。指導者がいなくても練習の仕方がわかっているのはセンスである。恥をかかないために事前に訓練しておくだけでも意味があるし、それより高い次元で個人練習できるなら、自分のやるべきことがわかっているのであり、なおさら素晴らしいのである。ぐうたらしているのは徳操が低い怠け者というよりは、個人練習の仕方がわからない気の毒な人なのである。恥をかかないためという初歩から、頂点を目指す境地まで幅はあれども、個人練習とはその人間の世界であり、やるべきことに気づいて実践できるだけでも価値がある。「努力してるフリ」とか「努力してないフリ」という俗的なものとはまったく違う話だ。
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