このところ東浩紀と津田大介の断末魔を望見しつつ思うのは、つまるところ、文化人活動と言論活動の違いである。言論活動は妨害されても止める必要はないし続行可能である。男根を切り落とされても史記は書けるし、ましてや今の日本で言論弾圧などささやかなものである。言論活動と文化人活動は似て非なるものであり、文化人活動については、ちょっとした揉め事になるとスポンサーが降りてしまうので成り立たない。抗議活動で言論を殺すことはできないが、文化人は死ぬ。文化人の講演活動などは、聴衆からの強い支持に基づいておらず、興味本位で有名人を見物するだけである。パチンコ屋の営業と大差がない。では聴衆からの強い支持となると、真っ先に宗教団体が思い浮かぶが、おそらく言論の自由の問題としては別腹であろうし、文脈が違う、もしくは対比させて扱うべきであろう。現在の話の文脈では、宗教活動と言論活動は対比的なものである。そもそも言論活動という場合に、それで生活する必要があるのかという問題があるし、対価がなくていいなら何でもできそうである。つまり東浩紀や津田大介が直面しているのは、文化人として生計を立てていくのが可能かという命題である。一銭にもならなくていいなら、日本に言論の自由はある。当然ながら儲からないとなると意欲を削がれるのが人間であるし、妻子を養う云々もあろうし、文化人活動はやりたいが、無報酬の言論の自由などに関心はないわけである。今後、東浩紀や津田大介が文化人活動を行うとなると抗議が来るかもしれないし、スポンサーが逃げることはありうる。収入源が絶たれるのを言論の封殺というのはいかがなものか、という話である。リスクが0であることを保証しないと言論活動をしない、ということかもしれないが、それならやらない方がいい。







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