2020.03.27
訴訟社会と疫病
われわれは訴訟社会に馴染んでおり、賠償という言葉がすぐに出てくる。何かに付けて、自らが受けた損傷についての補償を要求するのである。疫病となるとこの訴訟社会における補償理論も難しく、そもそも訴えるべき相手がいないということになるが、われわれはもはやそのような粗野で無骨な時代とは縁遠く、自粛要請で商売上がったりになれば、国家からの補償を求める輩が出てくる。不可抗力の自然災害を人為的なものと錯覚する誤謬、あるいは、訴訟社会に慣れきった甘えが根底にあり、これを児戯として一笑に付すことが出来ないのが、訴訟社会の病である。現在のわれわれは、その訴訟社会において生殺しにされ、自信を失っている。実際には訴訟沙汰になるとは思えないし、補償などないのだが、飲食店を強制的に閉鎖させた場合の補償問題とか、逆に飲食店が営業を続けた場合には、その飲食店こそが疫病を増幅させる装置として加害者となることもあろうし、疫病という巨大な暴力を前にしたちっぽけな人間存在が露わにされている。この半世紀くらいで人間の命の価値はとても重くなったが、その重さが陰鬱さを生んでいる。生存本能だけでなく、命を軽んじるのも野性的な感覚であるが、その原始的な殺伐さは訴訟リスクを生み出すので、牙はすべて抜かれており、裁判所の判決によって高められる命の値段に付き合わされている。人間の命が簡単に失われていた昭和時代が懐かしくなるほど、それぞれの命の重さが息苦しいのである。観光業は、大自然の恩恵に浴していることが多いのであるし、大自然からもたらされるリスクは織り込み済みであってほしいものだが、現生人類が地球を完全に制圧した現代において、大自然が人間をたやすく死に至らしめる力学には馴染みがない。先進国が観光業への依存を強めるのは、人間の勝利ゆえであるが、われわれは現時点において疫病の暴力の前に無抵抗になっており、この安定性が低いビジネスへの依存に厭いている。それでも観光依存は変わらないであろうし、これにしても、先進国で高等教育を充実させた結果として肉体労働が忌避され、肥大しているサービス業の受け皿なのだが、平凡な知性の人間に高等教育を与えてもあまり効果がなく、一部の人しか教育を受けてない社会のほうが人間の知性が高い、という側面もある。社会が進歩したことで人間はひ弱になるしかないのであり、あれこれ気疲れするだけなのが昨今である。
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