2020.05.17
診察という儀式
コロナウィルスによって、不要不急であるものがリストアップされていく昨今であるが、医療こそ真っ先に見直されなければならない。紹介状があると医者に診てもらえるのが現実であるが、そういうひとたちがメディアの発信側に多いから、紹介状がない人の悲劇は黙過されている。無名力士がたらい回しにされて喀血してようやく病院に収容され結局は死亡というエピソードで、かろうじて世間に伝わった程度である。そもそも医者に診てもらっても治るわけではないので、診察自体が不要である。つまり医療機関ではないところで検査を受け、陽性なら処方箋なしでアビガンを貰えればいいだけである。診察は無意味という現実は長らく放置されていた。診察の大半は薬をもらうための儀式でしかない。その儀式から医者が逃げているのであるから、われわれ患者はアビガンを手にするべく攻め込まなければならない。診察を省いてアビガンを貰える仕組みを実現してもらわないと困るし、それが嫌だと言う医者がいるなら、そいつに診察してもらうだけである。何が言いたいかというと、とにかく診察は不要なのである。それでも必要だと言い張るのなら、やむなく紹介状なしで病院に行くし、受付で門前払いされても診察室に入りますよ、ということである。そうやって旧態然とした世界を葬り去るのである。そうすれば、もう少し安心して感染できるであろうし、生き残る人間が蝕まれないために、われわれはコロナ死を甘受する。ワクチン開発まで年単位の時間がかかる、というより、安全性の問題を考えると、ワクチンが完成しない可能性もあるから、自粛の継続にも限界があり、このウィルスとの接し方について決断することが求められる。インフルエンザに毛が生えたようなものであるし、もはやウィルスに身を晒して免疫をつけていくしかないのだが、その一方で、無駄な危険性を省くため、不要不急の儀式は取り除かなければならない。ウィルスによって淘汰されるものもあれば、強行されるものもあり、もしくは新しく流行するものもあるだろうが、人間社会そのものが問い直され、人間の席次も変わる。生者の世界を継続するためには、人が死ぬたびに悲しむ芝居をやめねばならない。メディアを埋め尽くしている悲鳴記事は作文であろうし、もしああいう厚顔無恥な輩が本当にいるなら物乞いと判定し邪険に扱う。医療は最大限に効率化し、3分診療を根絶やしにし、アビガンは0秒で手に出来なければならない。
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