2020.06.01
愚痴で自殺を回避する
愚痴は堕落である。どれだけ無聊をかこつ日々が続こうとも、その空白を愚痴で埋めるべきではなく、愚痴ではないもので埋めるか、その白紙に書き込むべきものを持たないなら空白のままにしておくべきである。とはいえ、このところの社会状況においては、恐懼の念に耐えないような空白が横たわっており、これを愚痴で埋め尽くし、その生温い生命にしがみつくしかないこともある。愚痴を言わないとすれば、空白の寒々しさと対峙するしかないし、本物の痛みを体験しようという高潔さは死に繋がる。とはいえ、生きていればそれでいいのか、という問題もあるし、事例として挙げるのは申し訳ないが、有村悠さんなどは、40年以上の人生を愚痴で埋め尽くしており、その生命の意味はなんぞや、という問題もある。有村悠さんのように愚痴愚痴した性格だと、やらない理由、出来ない理由だけはたくさん思いつくし、それでいて無には耐えられないから、その閑暇を愚行で塗りつぶすのである。これは決して素晴らしくはないし、蔑まれるべきであろうが、自殺予防としては正しいアプローチだったと言える。有村悠さんのように自らを無用の長物として持て余す業病を抱えた暇人は古来よりいつでもいるわけだが、このコロナ禍で、普段は普通の仕事に忙殺されている常識人が、やむなく暇を与えられ、それを持て余している。その強いられた暇を愚痴で埋め尽くしている彼らを断罪すると、自殺を勧めていることにもなりかねないので、愚痴愚痴した性格で、やらない理由だけはたくさん思いついて、暇潰しに明け暮れる防衛術を肯定しなければならないのだが、とはいえ、他人の愚痴に耳を傾けていると、その腐臭に蝕まれるから、そういう世情であると割り切りつつ、他人が愚痴を言うのは仕方ないが、自分は愚痴を言わないという規矩正しい姿勢も求められる。他人を死なせるわけにはいかないが、自分が死に向き合うのを厭うべきではない。愚痴というのは、あまり正当ではない理由で自分を正当化する行為であり、時にはそれでしか人生に耐えられないこともあるが、そういう誤魔化し方に馴れるくらいなら生きていないほうがいいだろう。
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