2021.01.27
結婚とは空想家からの卒業
結婚が人生の墓場とされるのは、どのような相手であれ、伴侶を確定させるのは一種の投了であるし、空想という余白を持たない生活になるからだろう。逆に言えばいつまでも独身でいる人間は空想家として自分探しを続けるのである。かつて、自分ができなかったことを子どもにやらせようという風潮があり、自分がピアノを弾けないから子どもにピアノをやらせるとか、それが昭和の風景だが、音楽的な文化資本に乏しい出発となるのは明らかである。このところ、文化資本の格差をわきまえている人が多いから、自分ができないことは子どももできないと予測しているし、その分別自体はいいことだが、子どもで人生を逆転できないとなると、ますます結婚生活は余白のない代わり映えのしない墓場となる。では、結婚してない人は可能性に満ち溢れていて素晴らしい生活を送っているかというとそうでもないし、それこそ五十歳を過ぎた男性が自分探しを続けているのを見ると、これは婚活おばさんのユーモラスさとは違い、ただのホラーであり、戦前の青年将校を思わせる。まだまだ革命を諦めていないという不穏な目付きを見ると、やはり既婚男性はどれだけ低俗な人間であろうとも、夢想がないから安心できる。結婚しないと空想家から卒業できないのかというと、おそらくそうなのである。空白を埋めていないのだから空想に限りはない。あるいは能力的に何か打ち込めるものがあるならいいが、何もないとなると、空想しかやることがない。何も秀でてなくても平々凡々とした人もいるが、こういう人はなんとなく結婚しているし、やはり平凡さという特技がないと独身になりやすい。つまり、中年になると、たいていは人生の余白がなくなるのだが、この余白だけは無限という輩がいるわけで、われわれとしては彼らに殺害されないように気をつけるしかない。
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