今日の社会においてマイノリティという存在には、連帯する仲間がいる。つまり自分ひとりが世界から隔絶されているという感じではなく、紐帯を結び合う小集団である。そして、連帯するとなると、それは人権団体なのである。一人で悩むと人権にはならないが、集団で悩むと人権になる。当然ながら、ポリティカル・コレクトネスとしての社会勢力である。たとえば人権が発達していない昔の世の中で障害者が見世物小屋に集められても、これは連帯ではないであろうし、人権団体になろうとしてもなれない。進歩的な人権意識が根付いてこその人権団体である。良くも悪くも進歩的な良心の疚しさに食いつくのである。進歩的な人権意識がなければ良心が疚しくなることもないので、人権団体も存在し得ない。人権団体として連帯するのは、要するに補助金(税金)が目当てであるが、資本主義が進歩的な社会主義思想を取り入れた結果として、その進歩的な再分配にありつこうということである。そして、それでかなりの戦果を得るからには、この勝てる喧嘩に没頭するのも致し方あるまい。補助金(税金)をもらうのがゴールであり、それで満ち足りないなら補助金(税金)の増額を目指す。マイノリティはもはや孤独ではない。マイノリティの疎外感を芸術として昇華する文化性も失われてしまうから、文化的貧困とも言えるが、優れた芸術を生み出せる人はかなり限られてしまうので多数派が勝つのであろう。昨今のマイノリティはあれこれサポートがあるので、世界で悩んでいるのは自分ひとりだという感覚がなくなるし、それ自体は健全であるのだろうが、角を丸めて平均人に近づく行為なので、なぜか人間の実存の本質から遠ざかっている。ではマイノリティは平均性への埋没を避けるべく疎外され続けるべきか、という話ではないし、そもそも、このようなことをわざわざ付記せねばならないバイデン的な検閲時代に突入していることに戦慄するが、ともかくマイノリティゆえの芸術は無くなったと言ってよい。孤独がこの世から消えたわけではあるまいし、このコロナ禍において中高生の自殺は四割増しだという。見放されることは痛ましいが、救われない状況だからこそ、普段は平均性に埋没している人間も、実存の輪郭を悟ることもある。







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