小中高生の自殺が四割増しになって過去最多を記録したわけである。ちなみに小中高生の自殺は二十年くらい前から増加傾向にあり、少子化なので数が少ないように見えるだけである。コロナがなくても、昭和の頃より自殺率は増えている。なぜか世間の反応として、絶対に自殺するなというのは少なくて、「死にたくなるのはわかる」という共感が目立っている。コロナにおいて病死が増えたわけではなく、自殺者が増えただけという皮肉な問題がある。ひとびとは高齢者の大往生を願いつつ、若者は安楽死したほうがいいという変な話なのである。ここに悪意があるとは思わないし、いっそ死ねば楽になれるという現役世代のニヒリズムの反映でもある。急激に社会が暗転したというよりは、危うい綱渡りからとうとう転げ落ちたという印象を受ける。ひとびとが高齢者の大往生を望むのも、訴訟社会に毒されているからであり、たとえば老人が転倒して骨折したら、まずは誰かの管理責任を問うことを考える。やはり老人はちょっとしたことで命を落とすので、なにかのはずみというのが恐ろしい。高齢者が死ぬという自然の摂理に対して、遺族は責任を誰かになすりつける。死にかけの老人という当たり屋が屹立する世界で、特にこのコロナ禍においては、健康な若者は息を潜めて生きなければならないし、それこそ生きているのが罪深いような趣もあり、生命として疎んじられ、いっそ死んだほうがいいという社会的ニヒリズムがある。現役世代や中間層のニヒリズムはコロナ以前から強まっており、ここに来て本当に膿みだしている。普通に生きていると軽んじられ無価値な存在として扱われるのに、死んだ瞬間から弁護士が出てきてその生命の尊さを説くのである。われわれは生きていると債務者であり、死んだら債権者になる。普通に生きている中間層の価値を弁護士は説いてくれないので、極めて危険な説法である。若者の自殺に共鳴するのは本当の味方ではなく、ニヒリズムの押しつけである。生きていても仕方ないというニヒリズムは、生者である現役世代が生々しい生き証人として実感し説いているわけだが、そのような愚痴愚痴とした感情で未成年や若者の自殺を後押ししてはならない。大昔に比べればずいぶん便利な世の中になっているはずだが、いわば先進国の病というか、社会のインフラが整って快適になっているだけに、人間そのものの細かい粗が目につくというのがある。生きているだけでは失格らしいのだが、なぜか死にかけの痴呆老人は逆の扱いなので、ここはよく考えなければならない。生きていて高い値段が付く人はあまりいないが、死んだら値段が付くかもしれない。こういう当たり屋稼業の発想は克服したほうがいいが、克服することで素晴らしい人生になるわけもないので、なにか鬱々としているのである。







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