2021.09.13
第三者の間接的な意見として考えを流通させる
一年半も仄暗い獄舎に繋がれながら心も自粛しており、本来なら人間など死に絶えているはずだが、意外とひとびとが恬淡として生きているのは、人付き合いのストレスが減っているのが大きいであろう。快楽がもがれているだけでなく、苦痛も削がれている。俗縁を絶たれ、物事の強弱への感性を失った不具者として涅槃めいた世界に横臥している。不登校になればいじめがなくなるのと同じ種類の安らかさであるから、この仮死状態のままでいいわけではあるまいし、また他人と刺々しくやらなければならないだろうが、永遠にご勘弁願いたいのは飲み会である。というより、そういう世論形成に多くの人々が尽力しているのである。直接的に「飲み会は嫌だ」とは言えないので、何かしら間接的に伝わるように、いわばボトルに手紙を入れて海に流し、対岸に届くことを願うのである。コロナは飲み会を廃止する絶好の機会であるし、ここで引導を渡すというか、干からびた時代遅れの旧習にしてしまおうと腐心しているのである。苦痛を避けて快楽だけ選び取ることはできないし、両極があってこそ生々しい現実の他者性であろうから、都合の悪いものだけ無くすわけにもいかないし、人間社会の業病である飲み会が簡単に消えるとは思えないが、たとえば昭和時代は手に負えなかった暴走族がほとんど消滅した事例もある。暴走族の代わりに新たな愚連隊が登場したわけでもなく、騒がしいのは本当に消えた。昭和の世相と比べたらだいたいマシに見えるので比較しても意味はないが、昭和の遺物として飲み会だけはまだ残っている。このコロナという災厄の前向きな意味として多くの人が飲み会の消滅を期待しているのである。そして間接民主制的な世界において、その意向を、見知らぬ誰かに対して必死に伝えているのである。
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