2021.09.17
ボケてから眠るようにして死にたいという甘え
70歳くらいの人が死んだとして、それを悼むのはいいのだが、死なないでほしかったというのは違うと思う。そういう発想は、死を先延ばしにしているだけである。70歳くらいで死ぬのが、本当の死なのである。90歳くらいになると、もはや半分くらい、あるいは半分以上、もしくはほとんど死んでおり、普段から昏睡状態みたいなものだから、死んでも自覚がないという安らかさがあるのだろうが、そのような曖昧な死を求めるとコストが重すぎるのであり、新型コロナウィルスにしても、それこそ、40歳とか50歳の人間の命が高齢者より軽んじられている。老人として死ぬことが本当に怖いのである。70歳で死んでしまうと、いや、70歳と言っても個人差はあるだろうが、わたしが言おうとしているのは、様々な老化現象に直面しながらも、一応は頭がしっかりしている年齢として70歳と言っているのだが、ここで死にたくないというのが日本人の感覚なのである。奇妙な話だが、40歳とか50歳で死ねば、まだ若さが残っていて体がしっかりしているので、その方がいいのだ。本当におかしな話である。人間の死を悼むということについて考えなければならないし、やみくもに長寿を願うという惰性から脱却しなければならない。老人と同居していた昭和の頃であれば、ようやく爺さん婆さんが死んでくれて肩の荷が降りたという実感もあったと思うのだが、いまは同居しないで親孝行だから、ボケて半分死んでいる状態が長く続くことを望んでいるのである。死を自覚できなくなるまで延命させないと、あたかもこちらが死に追いやったかのうような罪悪感があるらしい。親と別居しているからこその発想だと思う。死を宿命として受容する発想を失っているので、70歳で死んだら大悲劇ということになる。肉体が老いて、意識がはっきりした状態で死を迎えるのが惨めで怖いというのはわからなくはないが、完全にボケてから死にたいという弱さと決別しないと社会の負担が大きすぎる。「頭がしっかりしているうちに死にたい」という高齢者が日本にはいないので、困ったことである。
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