われわれの世界像は、実体験で隅から隅まで確認して作り上げているのではない。むしろ行ったこともない国を知ったつもりになるのが中心となる。ジェイムズの「プラグマティズム」を再読していたら、卓抜な説明を見つけたので、ここに引用しておきたい。
(なお、岩波文庫の桝田 啓三郎の訳文である)。

まず、よくある問いかけについてジェイムズは言及する。
行ってみたこともないのに、日本が存在していると、ここにいるわれわれは推定している、われわれの知っているかぎりのことがことごとくその信念に組してなんらの妨げもしないから、つまり、日本の存在がそう推定させるからである。

これは哲学的な問題として、少なからずの人が思いつくわけだ。われわれはいろんな国の名前を知っていて、そのイメージも知っているが、知ったつもりになっているだけではないか、ということである。
ジェイムズはこの問題について次のように説明する。
まことに真理は大部分が一種の信用組織によって生きている。われわれの思想や信念は、それを拒否するものがないかぎり、「通用する」。それはちょうど銀行手形がそれを 拒む人のないかぎり通用するのと同じである。しかしこのことはすべて、どこかへ行けば目の前にじかに験証が見られるという 黙契 の上に成り立っているのであって、もしこの験証がなければ、かかる真理の構築は、なんら現金保有の裏づけをもたない金融組織と同じように、たちまち倒壊してしまう。

まさに信用というしかなく、それだけである。
盲信しているというよりは、そうなのだろうと信用するしかないわけだ。
アフリカは暑いとかシベリアが寒いとか、現地まで行ってようやく信じるというのではなく、行かなくてもそうなのだろうと信用して簡略化している。
これがプラグマティズムである。
この本の別の箇所の記述を引用すれば、こんな説明となる。
プラグマティックな原理に立つとき、われわれは生活に有用な帰結が流れ出てくる仮説ならばいかなる仮説でもこれを排斥することはできない。もろもろの普遍概念も、それが考慮されるべきものである以上は、プラグマティストにとって、特殊な諸感覚と同様に実在的なものでありうるのである。もしそれらの普遍概念がなんの用をもなさないならば、もちろんそれはなんら意味をもたず、また実在性をもってはいない。しかしもしそれがなんらかの有用性をもっているならば、それはその有用なだけの意味をもっているのである。そしてこの意味は、その有用性が人生の他のもろもろの有用さとよく合致する時、真となるであろう。

ジェイムズはプラグマティズムを多元論と称する。
森羅万象をすべて統一的に把握した世界というのはなく、あれこれ断片を足し算した多元的世界である。







スポンサードリンク

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング