コロナの間はマイノリティの尊厳の話で埋め尽くされた。なぜなのだろうかと考えると、マイノリティとは実は個人ではなく集団だからである。少数集団であり、つまり、少数派ではあるが、集団でもあるのだ。「同性愛者である」とか「少数民族である」とか、そういう集団性がコロナになって跋扈したのである。これは他人と会ってないことと深く関係している。沖縄とかアイヌ問題を観念的に強調されると、なるほど、確かにあいつら日本人ではないぞ、という印象が強くなるが、しかし現実的に「沖縄人」とか「アイヌ人」を見分けられるかというと無理である。沖縄人全体を見れば顔が濃いが、顔が濃いから沖縄とも限らない。やはりコロナで対面を避けているからこそ、ひとりひとりの個別性ではなく、なにかしら民族的な傾向(その民族の平均値)で人間を理解しているのだし、やはりステレオタイプである。個人個人がどういう人間かということよりも、沖縄人かアイヌ人か日本人か、という民族性(その民族の平均値)が重視されている。民族の平均値から人間を理解するのは、まったくの間違いではないにしても、かなりザックリとしたものである。われわれがマイノリティ連中に困惑しているのは、マイノリティが実は一人ではなく、何かしら同一性を持った群れであることだ。「わたし」というこの世界におけるたった一人のマイノリティの話ではなく、「アイヌ」とか「沖縄」とか「同性愛者」とか、そういう少数政党の括りなのである。彼らはステレオタイプを嫌っているように見えて、実はそれに依存しており、なにかしら利権があるのかもしれないが、まさに自縄自縛である。このコロナという孤独な世界において、われわれは他人と会えないので、自分自身にも出会えていない。ドイツに行ったことがないのに「ドイツ人はこんな感じ」と捉えるような、そういうステレオタイプに陥っている。コロナで他人に直接会えない代わりに、マイノリティ集団(そのマイノリティ集団の平均値)にお付き合いさせられたのは、あまりにも憂うべきことである。日本人・アイヌ人・沖縄人の区別などつかない、あるいは区別できたとしても、その民族の個性(民族の平均的な傾向)よりは、個人個人のほうが重大である。「自分は沖縄」とか「自分はアイヌ」と強調する人は、そんなにステレオタイプな理解を好んでいるのか、ということだ。「平均的な日本人」というのもあるかと思うが、われわれはそこに埋没しなければならないのか。今こそステレオタイプな人間理解から脱却し、ひとりひとりの在り方が問われるべきである。







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