2022.11.13
九死に一生を得る
人間は紙一重のところで生きている。いわゆる偉人であれ、絶対に負けない横綱相撲というのはあまりない。むしろ偉大であればこそ、人生の安泰が保証されていることはなく、九死に一生を得ることも多々有り、あるいは横綱になったかと思いきや、たまたま巡り合わせが悪く、本能寺の変で討たれてしまうこともある。腹を括るという言い回しがあるが、悪い結果に向かったらそれはそれで仕方ないという心積もりであろう。このディストピアで発生する出来事は紙一重であり、偶発的なタイミングの問題でもある。肝を冷やしながらも切り抜けたり、まさかという隙きを突かれて討たれることもあり、一回性の人生と歴史において、ふたつの結果はないので、辿り着いたひとつの結末を受け入れるしか無い。あるいは、昔の世の中だと医学が未発達であるから、人間の若死にはよくあり、誰かが死んだから自分に順番が回ってきたというケースもたくさんある。たとえば平清盛でも平家盛という非常に有力なライバルがいたが、20代半ばで病死している。平家盛は異母弟だが、父親の正室である池禅尼(藤原氏)の子どもであるから、こちらの方が平清盛より有力である。この人物が死んでくれたのである。ただ、池禅尼は発言力を持ち続けていた。その後、平清盛が平治の乱を制し、13歳の源頼朝を処刑しようとしたとき、まだ生きていた池禅尼の嘆願で止められてしまった。ひとりの若者が死刑を逃れたというひとつの出来事が日本の歴史を大きく塗り替えたのである。こういうのもまさに紙一重である。順境だから勝つとか、逆境だから負けるというわけではなく、なにかしら紙一重の要素もある。人類はそういう不確定な出来事に翻弄され塗炭の苦しみというべき歴史を生きてきたから、昨今の発展した社会では無風状態の安定を求め、歴史は終わったのかもしれないが、それでもこのディストピアが逃してくれないことがあり、生きるか死ぬかの危機が差し迫るとすれば、その波乱万丈の舞台を運命愛で受容するしかないのである。
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