2023.01.19
被害者の落ち度の有無。正義感という狂った車が。
最近発生した博多駅のストーカー殺人は、大衆の正義感がどちらに向かうのか知らないが、嫌な話になりそうである。真面目な女性が殺されたわけではなさそうだ。桶川ストーカーのときは、最初は被害女性が自業自得だとバッシングされていて、そのあとに温厚そうなお父さんが出てきて「普通の家庭の娘さん」ということが鳥越俊太郎によって強調され流れが変わった。どちらの流れも、大衆の正義感の不気味さである。ひとりの人間が殺められ命を奪われたのに、「普通の家庭の娘さん」であるか否かで何が変わるのかということである。ちなみに桶川ストーカーの加害者は風俗店経営者であるが、最初に被害女性がナンパされた時点ではそんなことなど知らないはずである。女性をナンパするときに風俗店経営者だと名乗るわけがない。あとから知ったのは間違いないわけだ。とはいえ、ナンパされて付き合ったのも事実である。桶川ストーカーの話を目にするたびに、なにかしら正義感の方向性について、モヤモヤする。少なくともわたしは桶川ストーカーの被害女性はあんまり真面目なタイプではないと思うので、落ち度がゼロだと強調されるのは違和感がある。そもそも落ち度というのは、物語の問題であり、相手が誰であれ、殺人は殺人である。安倍晋三を暗殺した犯人がどれだけ同情されても、殺人は殺人である。当たり前だが、桶川ストーカーについても、殺人は殺人であり、許されるわけがない。物語で理解する場合に、どういう感情を持つかなのである。「落ち度があった」とか「落ち度がなかった」という争いは、物語を生きている人間の業病なのであろう。殺人は殺人でも、物語の違いがある。最近は裁判員として制度化されているから、大衆の刑罰感情も法律の一部なのかもしれないが、それによって展開される情報戦は釈然としない。今回の博多の事件にしても、被害女性がどれだけ遊んでいるか、あるいは逆にどれだけ真面目な人間か、という情報戦が繰り広げられることが予想される。たぶんそれによって量刑は変わってしまうのであろう。
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