2023.08.09
保護犬・保護猫。ロンダリング。
人間が犬猫を繁殖させることの罪障の深さは不明だが、褒められたことではあるまい。ペットの繁殖は創造的な行為と言えないし、殖やすのは楽しく簡単である。生命は宿業であるから、産まれた命をどうするのか、というのが問われる。その問いの矛先をどこまで鋭く、そして誰に向けるのか、という話である。レスキューしたという文脈であれば、繁殖という罪から逃れられる風潮もある。保護犬・保護猫はロンダリングである。自分が命を生み出したのではなく、助け出したのだ、ということだ。保護活動というのは、免罪符とかロンダリングという側面が必ずある。犬猫が捨てられてないと困るわけだ。もちろん犬猫を飼ってないなら無縁の話である。飼ってない人には原罪もない。だが、飼っている人は原罪から逃れられない。保護活動をやる人だとどうしても犬猫を飼いたいだろうし、道に落ちてないとなれば、自分で繁殖させたりペットショップで入手するしかない。犬猫が落ちてないなら、(そしてどうしても犬猫を飼うのなら)、手を汚しながら犬猫を繁殖して、模様が悪いとか、障害があるとか、そのような難題にも直面するであろうし、繁殖という罪と共犯関係にならねばならない。現状においては、犬猫は落ちていて、それを拾うだけで簡単に正義になれる。レスキューした保護犬・保護猫を飼っているから繁殖にはノータッチであり、ペットショップとは無縁の正義の人である、という立ち位置が可能なのである。果たして「自分はレスキューしただけだから無罪」という論法はどこまで正しいのか、ということである。捨て猫を保護しました、という人も、かわいい子猫とか、きれいな猫だから保護したのだろう。「三毛猫だから保護したが黒猫なら見捨てていた」とか、それが実態である。命の選別に関わらないためには、飼わないという一言に尽きる。飼っているからには、需要あるところに供給あるというか、繁殖と無縁とは言えない。
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