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正常人は他人の物を隠すという嫌がらせを頻繁に行うし、これが咎められることはほとんどないのである。
おそらく物を隠すのは窃盗とは別なのであろうし、視野の広い人間が視野の狭い人間に対して行う攻撃なのである。
誰かの物を隠すというのは、やはり相手の視野が狭いと実行しやすそうだし、視野の広さで優位に立つ人間が行うのだと思われる。
「見えている範囲が広い」という如何にも正常な人間がやるのだから、正常な行為と呼ぶしかないのである。
物を隠される人間はおそらく「見落とし」が多いのであろうし、だからそれへの象徴的な罰として物を隠されるのである。
正常人が異常者に対して行う行為であるから、魔女狩り的な正義はある。
卑怯というわかりづらい言葉があるが、悪事ではない狡猾さと考えると、せいぜいそう呼ぶしかない。
では、見落としが多い人間に対して、なぜその理由を告げずに物を隠すという嫌がらせをするのかということだが、理由を説明しないのも正常人の特徴だからであろう。
大人になれば「おまえは見落としが多すぎる」と面と向かって言われることもあるだろうが、学校社会でそれはない。
それに、批判したら治るわけでもない、というか、本人が治したがらないだろうから、黙って嫌がらせなのである。
だいたい視野が狭いとなぜ悪いのかわからないし、社会人が同僚から文句を言われることはあるとしても、学校のクラスメートが批難するべき話ではない。
見落としが多いとしても、やはり学校社会だと純粋なコミュニケーションのズレであるし、職場でミスをするのとは話が違うから、改善を求めることもなく、嫌がらせで対応することになるのだと思われる。
巣鴨プリズンに入った戦犯が規則正しい読書生活を送ることで、衰えるどころかむしろ自らを深めて戻ってきた事例も少なくない。刑務所だとまた違うのかもしれないが、拘置所というのは道元禅師が推奨している生活態度と似通っているようにも思える。たとえば有村悠さんなどは、東大を不登校になってから、それこそ臨済宗の型破りな禅僧のようにして、あちこちに難癖をつけていたわけである。大好きな東大から徒歩五分のところに住みながら、おうちから出られなくなったのだから、あたかも囚徒であるかのようにも見えるが、坐禅のようにきちんと坐っていたわけではない。おもちゃを買ってもらえなかった子供のように床でゴロゴロしていたのである。坐るのとゴロゴロするのは対極であり、坐るというのはそれなりに背筋を伸ばし明晰な意識を持っているのである。有村悠さんが小学校低学年の頃は授業中に多動しながら歩き回って女子をなぐったり、椅子に座るとなると教師に殴られていたようだが、やはり背筋がきちんとしてないと座ったことにはならない。座っているのに座っていないという謎掛けだが、やはりきちんと座ってこそ本当に座ったと言える。椅子の上に軟体動物が蠢いている風情では、本当に座ったとは言えない。拘置所で読書が捗るのは誘惑が少ないという理由が大きいだろうが、読書をするために拘置所に入るわけにもいかないし、これはつまり「気が散る」のを別の方法でなくさなければならない。あちこちに散乱している好奇心の対象はそれなりの重力を持っていてわれわれの煩悩を引き寄せようとするが、その誘蛾灯のような綺羅びやかさに惑わされない無我の境地があるかどうかである。道元禅師は公案を軽視していると言っても過言ではない。もちろん露骨に軽んじているわけではないし、批判しているわけでもないし、丁重に扱ってはいるが、まったく重視してないのである。臨済宗がいわゆる禅問答で極論を吹っ掛けていくものであるとすれば、道元禅師(曹洞宗)は只管打坐を説く。ただ単に坐るだけである。道元禅師は当時としては屈指の権力者であった源通親の六男とされる。母親は木曾義仲が源平合戦で敗北したときの女だったとされる。この母親は藤原基房の娘なので、おそらく慈円や九条兼実と血縁関係もあるはず。ともかく道元禅師はかなり有名所の血筋なのではあるが、幼少期に父親の源通親が死去したこともあり、出家の道を選んでいる。道元が変わり者であるというエピソードは皆無であるし、無法者が自己克服したわけではないから、育ちの問題もあるだろう。だが育ちがよくてきちんとしていて、それだけという人が大半である。道元禅師が突出した偉人である所以は、まだわたしの理解では足りないが、きちんとしてるほうが諸法実相を理解できるという賢者の直感に思える。変わり者としてあちこちに激突していくことで得られるものもあろうが、所作をきちんとすることによって人間理解が深まることもある。つまるところ、くだらない誘惑を断ち切るのにどうすればいいかということだが、背筋を伸ばしてきちんと坐るという方法があり、これは型に嵌まるというよりは、物事を見極めて俗世間を睥睨することなのである。
たとえばボケ老人が「あれが必要」と言ったとして、たいていは意味不明であるはずだ。ボケ老人には見当識がないので「あれ」として指し示す前提の世界を他人と共有してないからである。これがしっかりした人間同士であれば「あれが必要」で話が通じることが多いであろう。見当識を共有しているので、だいたいわかるわけである。物事をいちいち説明しないのも同様であり、見当識によって同じ世界を見てるから、説明は省いてもいいのである。ひとつの言葉で多数の人が同じ表象を浮かべるのでなければならない。細部まで逐一言葉にするとむしろ現象の輪郭をなぞれないこともあり、書き損じの片言隻句に引き摺られて現実が歪む。見当識とはなんぞやといえば、とりあえず地球人類が共通に持っている規格なのであろうし、宇宙人とはまったく異なるだろうから、宇宙のすべてで通用する真理ではないのだが、人間的真実としては確実にあるのである。その見当識がしっかりしている状態で「あれ」と言えばわかるし、もしくは「あれ」と言う必要さえないのだが、ボケ老人とか若年性痴呆とか発達障害者だとそれが不充分である。見当識を持つためには周囲の状況をよく見ている必要がある。ボケ老人とは対極の高い知能の持ち主が宇宙人と呼ばれることもある。そもそもなぜ四六時中他人を観察せねばならんのだという疑問もあるだろうし、そういう世渡り能力が疎んじられていた時代もあるが、第三次産業では周囲への視野の広さが必須であり、そこに重点が置かれるのは致し方あるまい。だいたい内面世界なる小宇宙は現実の残滓であり、この残飯は腐臭を放つ前に焼いて根絶やしにしなければならない。これをゴミ屋敷のように溜め込んでしまうのは、やはり地球世界の見当識が足りてないのだし、自閉圏を苗床として繁茂する厭わしい世界は結局のところ狭い視野で都合のいい現実を見た妄想なのだから、頭の中でバロンドールに輝いたりするよりは、自らの肉体周辺の状況を察するべきだろう。
インターネットの初期の頃は左翼が強かったというか、反権力的な印象であった。それがだんだんネトウヨと呼ばれる連中が権勢を振るうようになったのは、左翼自体が絶滅危惧種なのだから、人口比の自然な反映とも言えるが、そのような思想背景とはまったく別の話として、ひとびとは警察を嫌っているのに、誰かが逮捕されるのを喜ぶという問題がある。そして誰かが逮捕されると「次は自分だ」ではなくて「自分は助かった」と考えている。つまり誰かを晒し者にする見せしめ方式である。他人が手酷い笞刑で血塗れの背中を腫れ上がらせていたなら、そいつがスケープゴートになったのであろうし、自分は助かったと嬉しくなってしまうのがこの世の習い。本当に自分が助かったかどうかは確定してないはずだし、全員を皆殺しにするところまで権力がエスカレートすることもなくはないが、刑事罰について言うなら、一人残らず逮捕していたら、警察はまだしも、裁判官とか刑務所のキャパシティが限界となるから、そうそう片っ端から逮捕はできない。グレーゾーンの不行跡に手を染めていても、見せしめが行われた時点で手を引けば大丈夫という具合である。津田大介の手は真っ白なのだ。だから、われわれは過去の悪事で罪が問われる畏怖に震えることなく、誰かが逮捕されると安堵して喜ぶのである。東京地検特捜部などは以前は巨悪を捕まえていたのに、官僚の接待疑惑に踏み込んでから迷走した、いや、もちろん官僚を接待するのはよくないが、微罪であるのも確かなので、それを重くしようとして冤罪まで作り出すと、罪障が深いのは検察の方というオチになった。警察であれば微罪でも逮捕して、記者クラブで喧伝した上で容疑者をカメラの放列に晒し、有耶無耶に書類送検でもしておけばいいが、検察だとガチで罪が重くないとまずいというか、見せしめの上手いやり方がないので、最後まで徹底追求して、何も出なければ藤村新一の顰みに倣ったゴットハンドで捏造するしかないのである。ともかく、東京地検特捜部の暴走は厳罰を望む世論が背景にあったであろうし、法廷ではなく、逮捕や捜査過程で人間が晒し者にされ裁かれる問題でもある。ヤフコメに集まっている有象無象は、名刹を巡礼したり、景勝地で花鳥風月を愛でているのではなく、瘴気ただよう見世物小屋にたむろしてフリークスの登場を待っている俗衆という自覚を持つべきである。他人が罰せられたり落剥の身となる様子が愉しいのは事実だが、あくまで悪趣味なのだから正義を気取るべきではない、もしくは正義君の実態は処刑愛好家であり人倫に著しく反していることを、われわれも認識しなければならない。
2018.03.22

謝ったら死ぬ

われわれは権利問題を巡って他人と話し合うことを喧嘩と呼んでいる。
大衆酒場で酔漢が掴み合いをしているわけでもあるまいし、権利問題の話し合いを喧嘩と呼ぶのは変ではあるが、しっくりくるのも確かである。
これは要するに、譲歩する用意があるかどうかである。
価格の話なら交渉のテーブルはあるが、バンドで誰が脱退するかとか、ただの敵対である。
自分から迂闊に譲歩してしまうと、相手がやたらと強気になって、こちらが負けてしまう。
だから最大限の要求をぶつけ合うしかなく、やはりこれは喧嘩と呼ぶしかないのである。

誰かが事務的に仲裁してくれると、譲歩案なども述べやすいが、当事者だとなかなかそういうわけにもいかない。
そもそもそういう仲裁者もなかなかいない。
弁護士が入ると、むしろ最大限の要求を強気ですることになる。
これは弁護士が双方代理を禁じられているからで、一方的な言い分を言うしかないこともある。
だから、弁護士が言っているから正しいわけではないし、むしろかなり吹っかけた暴論であるわけだ。

最大限の要求というのは、バランスを取る気がないわけで強引そのものだが、こちらだけ譲歩するわけにはいかないので、ちょっと無理な主張をすることもある。
このような組み手争いは喧嘩と呼ぶしかない。

「謝ったら死ぬ病」というネットスラングがあるようだが、これは、第三者が見ていているところでは強気な主張が阿呆でしかないということだろう。
当事者だけの密室なら、謝ったら死ぬという勢いでやるのは珍しくない。
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