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怠けるのは無の境地へ向かおうとすることではなく、むしろ自我が強いから怠けるのである。
たとえばゴロゴロしているというのは非生産的ではあるが、ひとつの行動である。
非生産的だから行動ではないと決めつけるべきではない。
つまらないと感じた時にゴロゴロするという行動は、それなりにあり得ることだ。
努力が苦痛でないという人は少なからずいるが、そういう人は、つまらなさへの耐性が強い。
つまらなくても平気なのである。
たとえば本を読むとして、集中してないとすんなりと頭には入ってこないが、まったく入ってこないということはない。
気が乗らなくても本は読める。
集中力が最大値に到達してようやく書を紐解くというのであれば、かなり限られた本しか読めない。
退屈に耐えられない人でもゴロゴロしてツイッターが出来るのは、最高のツイートをしようという強迫観念がないからである。
読書については完璧主義なのに、気まぐれにツイートを読んで気まぐれにツイートするのは構わないということなのだ。
読書だって寝転がりながら弛緩した状態で行って差支えないし、気まぐれに拾い読みしてもいいと思うのだが、やはり「きちんと読む」のが基本であるから、その集中力を苦手としている人は逃げてしまう。
つまらなさに耐えられる、というより、至って平然としていられる人は少なからず存在しているから、ここが人間の格の違いなのであろう。
怠けるのは無ではないし、むしろ無を拒絶する愚かしい行動である。
心躍らず凋萎れている感情で充分に生きていけるかどうかであるが、なぜか金持ちのほうが渋面を作ってつまらない時間を過ごすことが平気である。
貧乏人がやたらとはしゃぐのもよくわからないが、家庭環境の影響があるようだ。
ウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)が「プラグマティズム」を著したのは1907年である。
彼はハーバード大学で医学の学位を取得している理数系の人である。
五感で認識できないものが科学で次から次へと解明されるようになった時代を生きていた。
そういう科学的知見の合理性をどのように受け入れるかという議論をした書物と位置づけていいであろう。

彼はこれをオプティミズムでもなくペシミズムでもない「改善論」と位置づけている。
プラグマティズム(実利主義)によって世界は改善され、人類は救済されていくのである。

「プラグマティズム (岩波文庫)」W.ジェイムズ(桝田啓三郎訳)
オプティミズムはつねにヨーロッパ哲学における支配的な教説であった。ペシミズムはごく最近になってショーペンハウエルによって唱えられたばかりのもので、いまだ体系的な擁護者を少数しかもっていない。改善論は救済を必然的とも不可能とも説かない。それは救済を一つの可能性として扱うが、この可能性は、救済の現実的な条件が数多くなるにつれて、次第に蓋然性の度を加えると考える。
プラグマティズムが改善論に傾かざるをえないのは明らかである。世界救済の若干の条件は現実に存在しているのであって、プラグマティズムはこの事実に眼をおおうわけにはゆかない。もし残りの条件があらわれてきたならば、救済は完成した実在となるであろう。もちろん、私はいまこれらの言葉を甚だおおまかな意味で用いているのである。諸君は「救済」という語をいかようにも思いのままに解釈されてよいし、またこの救済ということを分布的に局所局所に起こる現象とも、あるいは危機にのぞんで全面的に生ずる現象とも、好むままに解してよいのである。


五感では検出できないことも科学では検出可能である。
たとえばかつて医師は細菌の存在など知らず、手を洗わなかったから産褥熱で死亡する妊婦が少なくなかった。
手洗いで産褥熱が防げると提唱したセンメルヴェイス・イグナーツ(1818-1865)という医師は、同時代人からとても憎まれ、精神病院で撲殺されて死亡したが、どちらが正しいかは後にコッホやパスツールが細菌学を築いてはっきりしたのである。
「プラグマティズム」が書かれたのは前述したように1907年だが、20世紀の幕開けにおいて、近代科学の合理性を称揚したとも言える。
(「プラグマティズム」で産褥熱の事例は引き合いに出されていないが、ジェイムズは生物学を研究していて、コッホやパスツールと同時代人だから、そういう時代背景あっての書物だろうと、補助線を引いてみただけである)。

批判主義の哲学的段階は、消極的な面では科学的段階よりも遥かに徹底するにいたったが、それだけに実際的な力の面ではなんら新しい視野をわれわれに与えていない。ロック、ヒューム、バークリー、カント、ヘーゲル、彼らは皆、自然の局部局部に光を投ずるという点では、全く不毛であった。事実わたくしは、彼ら独得の思想から直接に生まれたと思われるような発見ないし発明を何一つ考えることができない。バークリーのタール水にしても、カントの星雲説にしても、彼ら自身の哲学説とはなんのかかわりもないではないか。


われわれは人間は人体として存在しているが、この人体なる物差しであらゆる判断を下している。
人体が本当に実在しているのか定かではないし、われわれは身体性という現象世界を生きているだけであるが、細菌で病気になるとか、そういうのが科学で判明してくるので、ひとまず快-不快、生-死、薬-毒という対立軸の中でQOLをプラグマティック(実利的)に上昇させようとする。

五感が全てであるがゆえに、そこに引っかからない物事、たとえば細菌などを科学で検出して、身体の快適さの向上を試みているのである。
最先端の科学で原始的な感覚を快適にしていく。
アインシュタインはヒュームを愛読していたとされるが、ヒュームの感覚一元論がアインシュタインの相対性理論に繋がるのも、そのあたりであろう。
GPSは相対性理論のお陰でとても正確な数値が出るのだが、スマホでGPSを使っているわれわれの大半はその理論を知らないし、むしろ相対性理論の前の、素朴な三次元空間を生きている。

われわれが原発事故で大騒ぎするのも、放射能の危険性を科学で知っているからだ。
キューリー夫人でさえ放射性物質が人体に害悪であると気づかずに寿命を縮めたのであるから、素朴にわかる話ではないのである。
新しい科学的発見で世界が塗り替えられていくのだが、われわれはいつまでも素朴に実在しており、ずいぶん奇妙なことである。

「プラグマティズム」はすべてが合理性で説明できる理論だと誤解されている気がするのだが、あくまで改善論である。

ただ合理ずくめの世界などというものがあるとしたら、それは魔法帽子の世界、テレパシーの世界であろう。そこでなら、あらゆる欲望がたちどころに満たされ、周囲の力とか媒介力とかを考慮したり宥めたりする必要もありはしない。これこそ絶対者そのものの世界である。


科学的知見で改善されていく世界の実態を、そのまま認めただけと言ってもいい。

行ってみたこともないのに、日本が存在していると、ここにいるわれわれは推定している、われわれの知っているかぎりのことがことごとくその信念に組してなんらの妨げもしないから、つまり、日本の存在がそう推定させるからである。
(中略)
まことに真理は大部分が一種の信用組織によって生きている。われわれの思想や信念は、それを拒否するものがないかぎり、「通用する」。それはちょうど銀行手形がそれを拒む人のないかぎり通用するのと同じである。しかしこのことはすべて、どこかへ行けば目の前にじかに験証が見られるという黙契の上に成り立っているのであって、もしこの験証がなければ、かかる真理の構築は、なんら現金保有の裏づけをもたない金融組織と同じように、たちまち倒壊してしまう。

われわれは黄教授と小保方晴子はインチキで、山中教授こそ真理だと知っているわけだが、これは「信用」としての問題である。
専門家を除いては、真札-偽札を自分自身で検証するプロセスは省いている。
ひとりの人間の認識能力には限界があるので、それを集合知で補っている。

人間の努力というものは一日一日と世界を統合して行ってだんだんはっきりと組織化することに向かっている。こうして植民組織、郵便組織、領事組織、通商組織などができ上がった。これらの組織に所属する部分部分はすべて一定の影響力に服従しており、その影響力は、組織の外にある事実にまでは及ばないが、組織の内部ではだんだんひろがっていく。広い広い宇宙のなかに、世界のいろいろな部分の大規模な繫がり合いができ、またその内部に小さな繫がり合いが、言論上の小世界ばかりでなく実際活動上の小世界が、無数にできてくる。おのおのの組織は、それに属する部分をそれぞれ特殊な関係で縛っているのであるから、統合の一つの型ないし度合いを表わしている。


われわれはいつまでたっても全知全能の神にはならないし、特定の三次元の座標から遁れられない盲人ではあるのだが、自分の肉体の所在地とはまったく懸け離れた場所もプラグマティック(実利的)に認識している。
専門家ではないわれわれは、放射能とか細菌も自分で検証してはいないが、「知っている」のである。
人間社会では偽札が蔓延って腐敗することもあるが、だいたいはプラグマティズム(実利主義)において真札が勝利して、そちらが合理性を持つのである。
2017.03.01

警察と時代

法律は量刑の重みだけでなく、警察が断固たる姿勢を取るかどうかが肝心である。われわれが共通の時代を生きて、似たような人間になるのは、法的存在だからである。決して六法全書を片手に行動しているわけではないし、条文など知りはしないが、警察の方針は知っている。獄卒と囚徒の関係は出来上がっており、それに従い、この地球という刑務所におけるわれわれの存在がある。その獄卒たる警察の方針は時代に応じて変化する。学校で体罰が横行していたのは警察が容認していたからであり、このところ体罰が手控えられるのは警察が容認しなくなったからである。世の中は警察が決めている。無味乾燥な法律より、その取り締りの「重点」を決める警察の方が偉い。この警察の恣意性は何とも言い難い問題である。法律に違反したら自動的に逮捕されるとなると、まず警察のキャパシティが足りないし、さらに裁判所や刑務所が決壊してしまうので、警察がそれなりに見逃しているのである。「全員を逮捕」するのではなく、一罰百戒というスタンスになる。見せしめにするのは不公平に思えるが、「全員を逮捕」は不可能なので致し方あるまい。体罰が悪いとされるようになったのは、師弟関係の形骸化である。戦前の人の物語を読んでいると、本当の師弟関係というものがある。弟子入りするような格好で誰かに教えを請うているのだ。これが戦後になってくると、「弟子入り」するような文化は完全に消え去るし、自分が選んだおぼえがない教師に割り当てられるだけである。昔の大人は面倒見がよく、赤の他人が教えを請うてくるのを食客として居候させることもあったが、戦後の教師は面倒見が悪い。やはり「弟子入り」してこそ師弟関係であろうし、この師弟関係の形骸化により、教師側の体罰がただのバイオレンスとして浮かび上がってきた。前述したように、世の中のルールは警察が決めているのだが、時代を眺めて野放図にさせた上で、その末路たる血腥い終章を飾るかのように総決算を行うことが多いようだ。体罰についても、師弟関係の形骸化による暴力の蔓延を何十年か放置して、理不尽さが積もりに積もってから介入することになった。援助交際とかWinnyもひとまず蔓延させて、しばらくしてから重い腰を上げるのである。時代の変化に対して即座に対応することは少なくて、問題が巨大化してからメスをいれることが多いようである。そしてわれわれは「見せしめ」を見ながら心を入れ替える、というか、否応なしに行動を制限されることになる。法律の条文を法律家として理解するのは難易度が高いが、誰でも見せしめというショーだけは見ており、文盲でさえそれに好奇心を持つから、識字より浸透度は高い。東京地検特捜部などはエポックメイキングとなる見せしめをやろうとしすぎて凋落したが、警察と違ってなまじ法律の専門家であるだけに、法律の条文とにらめっこして先走ったことをやりすぎた。法律に違反した人間に漏れなく手錠をかけて囚人とするのは不可能なので、見せしめによって法を大衆に周知する仕組み自体はこれからも変わるまい。世間の風紀が紊乱し、愚行や破廉恥が目に余るようになってから警察は動くから、後手後手に回ってしまうのであろう。社会は同一の状態にあるのではなく、経時的に組み替えられていくから、少しズレたら元通りに修正するというわけにもいくまいし、時代に泳がされて先に進み、死体の山が積み重なってようやく取り締まりが始まるのは、人倫としての理非はともかく、そうしておくしかないのであろう。
世の中のことはたいてい説明されない。
岩崎友宏についても「気持ち悪い」としか言われてない。
だから理由が伝わってない。
虫酸が走る、吐き気を催す、生理的に受け付けない、このような感覚的な言葉で、岩崎友宏を蛇蝎のごとく嫌悪する気持ちは吐露されるが、あまりにも自明のことなので、これを腑に落ちるような理屈で説明することはない。
われわれが説明を省いているのは、言わなくても察しが付くと思っているからだし、気持ち悪い奴がなぜ気持ち悪いのか証明してみせる習慣がないからであろう。
説明しなくても気持ち悪いという共通理解は伝わるし、説明されてようやくわかる鈍感な人間は置いてけぼりにするルールであるから、説明は割愛される。
とはいえ、おそらく気持ち悪い理由について思考が省かれているのが問題であろうから、普段は素通りしている「なぜキモいのか」という命題について詳述してみる。
好意とは発情なのである。
さかりがついた状態である。
人間はいつも発情期ではあるが、野外ではセックスはしないし、きちんとした服を着て行動し、羽目をはずしていい例外的状況を除いては、「さかり」を露骨に見せてない。
つまり人間はいつも発情期という言い回しは、さほど的確ではない。
いつでもセックスが可能ではあるが、普段は「さかり」がついたような行動はしないし、性をタブーにしている。
好意が気持ち悪いのは、それが発情だからであり、発情が気持ち悪いからだ。
若い女が言い寄ってくるならいいが、さかりのついた男は、イケメンを除いて気持ち悪いのが当然である。
発情している男は、要するに勃起しているのだ。
女からすれば、勃起したオスが発情して迫ってくるやばい状態なのだから逃げまどう。
非日常的な時間において性を楽しむにしても、日常性から性は排除されている。
だから発情を剥き出しにされたら気持ち悪い。
岩崎友宏は頭が足りてなさそうだし社会常識を欠いていると思われるから、性を隠すというマナーは知るまいし、それこそ善意のつもりで発情している。
若い女の身体ならともかく、発情した岩崎友宏の勃起した男根が欲しいわけがないのは明白だが、善意の押し売りはいつも厄介である。
難儀なのは、発情して勃起している間は、求愛行動ならではの多幸感がありそうなことである。
この段階では、性愛の宴を思い描いてご機嫌かもしれない。
それが拒否されて逆恨みになると殺人鬼となる。
拒絶されるまでは夢気分で愉快であろうし、その認識の甘さはお人好しと言えるから、はしゃいでいる姿がいい人に見えることもある。
だがうまくいかなければ、パワー系なりの逆恨みや暴力に訴えるのであるし、冨田真由さんの惨劇を見れば、岩崎友宏がいい人であるはずがない。
他人を攻撃するのに理由を言うとしたら、おかしな人間である。
理由は説明しないのが常識。
理由を述べて他人を非難したりすれば、その相手から逆恨みされるだけでなく、周囲からも「余計なこと言わなけりゃいいのに」と思われるのだ。
誰かが追及されているのを見た時に、いかにもその言い分が正しくても、「正義面しやがって」とか、追及している側に生理的な嫌悪感を持つことはあるだろう。
こうやって不正義を黙過しているうちに、だんだんと腐敗が蔓延するのが人類の業病なのだ。
ともかくこういう具合であるから、他人を攻撃する時に理由は言わないということになる。
理由など言わずとも察しが付く。
わかりきってるから言わないのだ。
他人から嫌がらせをされるとして、理由がまったく不明ということは稀である。
この世界では、無言で力を振るえということなのだ。
言葉という刃物を振り回すことは許されない。
はっきり言えば、いじめを見るのは楽しいのだが、正義で追い詰めるのは見ていて楽しくない。
いじめは一方的だから楽しいが、他人を問い詰めたりするのはギスギスした揉め事だから楽しめない。
常識人は社交性最優先だから、ギスギス感をとても嫌がる。
誰か一人がスケープゴートになって終わりならいいが、ギスギス感が全体に伝わるのは嫌悪する。
だから道義的におかしなところがあっても見逃すことにしており、これが腐敗の原因となるのだが、常識人が常識人として不正義を看過しているからこうなるのだろう。
アスペルガーには特異な観察眼があるとされるが、やはり常識人は不正義を発見しても見なかったことにして終わりなのである。
アスペが超能力者なのではない。
常識人は「俺は見なかった」ということにしてしまうのだ。
アスペのような執念深さがないのが常識人であり、社交性として長所ではあるのだが、馴染んで馴れて受け入れるのが彼らの生き方であるから、社会を組み替える気はないのである。
さすがに腐敗が巨大化したら、普段は見逃す主義の常識人でさえも、メスを入れなければならないという心境になり、それを行う正義に拍手喝采を送ることも有るが、普段はギスギス感を避けるために不正義を見逃して和気藹々とやっている。
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