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われわれはおそらく好き嫌いについて根本的に思い違いをしているのである。
たとえばあなたがカーストの低い人間だとして、あなたに好かれるために他人が媚びてくるかというと、それはないはず。
つまり、あなたには好かれたくないわけである。
そして端的にいうならこの世の中、「この人には好かれたくない」という人だらけなのである。

セックスという問題があり、若い女ならとりあえず(極端な不細工を除いては)性的価値があるので、実は他人から好かれたくないという真実は曖昧にされているが、本質的な人間と人間の関係からして、やはりわれわれは他人から好かれたくないのである。

他人に好かれたいという強迫観念を持っているなら、それ自体がおかしいのである。
もちろんセックスとか金とか名声とかそういう実利のために、手段として好かれたいというのはあるから、好かれるための努力をしているのだが、チヤホヤされている人でも、人気がなくなったら一気に人がいなくなったりするわけだ。
なぜ「人気がなくなった人」に好かれたくないのか、それはメリットがないからだし、そもそも他人から好かれたくないからなのである。

発達障害者が疎まれる大きな理由もそれなのである。
自閉症スペクトラムの濃淡によってかなり違いはあるが、他人と親しくなれないのと同時に、やたらと馴れ馴れしいのも特徴だったりする。
ADHDは分け隔てのない親しみを他人に示して疎まれたりするわけだ。
定型発達者であれば、お誕生会に誰を呼ぶか(誰を呼ばないか)という差別感覚を身に着けているのだが、ADHDは無頓着だったりする。
これは決して差別をしない聖者というのではなく、社会的嗅覚の鈍さ、そして自らの体臭に気づいてないだけであろうし、頭のネジが外れているのである。

定型発達者のお誕生会も、要するに人選が差別的であるから、今まで呼ばれていた人が呼ばれなくなることもあるわけだ。
言い方を変えれば、差別などではなく、われわれはひとしく人間そのものが嫌いであり、容姿や金銭や権力などが目当てというだけなのである。
人間としては嫌悪しあっているのに「お目当て」のためにお誕生会をしているのだ。

ともかくチヤホヤされていた人がチヤホヤされなくなるという現象を目にすると、この世には差別などない、とも言える。
誰もが本当は嫌われている。
どんなに華やかな人間でも、お誕生会から外される可能性はある。
人間の人生は短い一回性であり、立場や肉体は固定されているし、そうそう頻繁には没落しないから、その短いスパンだと差別があるように見えるだけである。
誰もが本当は嫌われている、そもそも他人に好かれたくない、それが真実である。
「人気がなくなった人」と友だちになりたいか、と想像してみれば簡単な話である。
チヤホヤされなくなった人を見るだけで、そういう人間の本質はよくわかる。
なぜかわれわれは自分の家族と他人の家族の区別がつかない。
いや、別人であることは知っているが、あたかも同一のように見做して共感しているのである。

社会には経済というものがあり、家族は連帯保証人のようなものだから、身内と他人というのは区別できるけれども、家計という縛りがないとしたら、どこまで家族関係の根拠があるのかわかりづらい。
経済という要素がなければ、という仮定はナンセンスかもしれないが、仮に経済という要素がなく、誰もが最高の環境で生まれてくるとするなら、親が誰かはさして問題ではない。
やはり経済的な問題として連帯している関係だと言うしかないのである。

ベビーカーが迷惑という変な話が出るのも、イエ制度から核家族に転じているので、個人主義的な発想に基づいて家族を守るという観念が強くなっており、子連れの親が警察官のように見えるからだろう。
事件報道があるたびに、ネット上で「これが自分の家族だったら相手を殺す」とか書いてる善男善女がたくさんいるわけだが、そのような家族愛の意識が、現実のベビーカーなどを見ると、自らが犯罪者だと疑われないように警戒する形で跳ね返ってくる。
家族に何かあったら「相手を殺す」と仇討ちを予告しているのが最近の親であり、そういう殺伐とした善男善女と現実に接するとなると厄介なのである。
仇討ちの予告は犯罪に該当しないようだから、これは自由なのであろうし野放しにされるが、其の結果として殺伐感が生まれる。

自分の家族は本当に自分の家族なのかというと、前述したように、人間は経済的存在なので、富貴の生まれとか貧賎な生まれという格差が出るわけだが、これは要するに縄張りの問題であるし、事実といえば事実だし、無根拠と言えば無根拠である。
「これが自分の土地だ」という所有権に事実性があるのなら、「これが自分の家族」というのも事実なのであろう。
人間同士での取り決めでしかないが、その事実性が人間存在である。
経済的に運命共同体であるというのは、たまたまどこかで接点があるという程度ではなく人生そのものであるし、だから最寄り駅の駅員さんを「自分の駅員」だと言うことはなくても、自分の家族は自分の家族なのである。
ではなぜ自分の家族と他人の家族を混同して共感しているのかというと、「身内」というイデオロギー性なのであろうし、それが軍事境界線なのであろう。
おそらくわれわれは、尊敬されたいという感情はたいして持ってないのである。
他人から侮辱されたら激しい怒りを抱くが、尊敬されたいという感情はそんなに強くない。
何が言いたいかというと、実は尊敬されたいのではなく、侮辱されたくないから、そのために、尊敬されておくと手っ取り早いというだけなのである。

侮辱されてから怒っても遅いので、われわれは先制攻撃として他人を威嚇したり、偉そうにしたり、あるいは一目置かれるような人間になろうとしている。
尊敬されたいという気持ちもあるだろうけど、侮辱への激しい怒りに比べたら、ささやかなものである。

こうやって考えると、人間の実態がなぜこうなのか、だいたい理解できる。
「侮辱されたくない」と「尊敬されたい」を明確に区別するとしたら、侮辱されたくないのが人間の根源的な欲求であり、尊敬されたいというのは付録である。

侮辱には実害があり、誰かから馬鹿にされると、同調者が次々と現れる。
端的にはいじめというものである。
リンチで死んだり後遺症を負うことだってないとは言えない。
だから、ありもしない幻想を恐れているのではないし、明白な実害を避けたい感情である。

尊敬と侮辱は対概念であるという前提で筆を進めてきたが、これも判然としないし、実はあまり関係がないかもしれないのである。
侮辱への恐怖が巨大な問題であり、尊敬という概念が付け足しのように出てきているだけである。

「怖がられる」のが尊敬されるのとほとんど同じであるのも、そういうことだろう。
侮辱されない状態として同一だからである。
怖がられるなら満足なのである。
キモオタに対して「あいつは怖い」と煽ったりする場合もあるが、山口組や稲川会の組員に対してそんなことは決してやらない。
本気で怖がるのは尊敬である。
ヤクザを怖がるのと天皇を崇拝するのはまったく違うように見えて、畏怖という点では同じである。
なぜ同じなのかというと、ここまで述べてきたように、われわれは侮辱を非常に恐れており、尊敬はさして望んでないからである。
侮辱されない保証があるなら、尊敬されなくてもまったく困らない。
就寝時の夢の中で、たとえば東京から徒歩でニューヨークに出かけても「これは理屈に合わないから夢だ」とは思わない。
実際は時たま「あ、これは夢だな」と半覚醒状態で理性が働き、夢と空想の半々のような状態に陥ることもあるが、たいていは夢の中の仮初めの法則をまったく疑ってない。

たとえば現実世界で地下鉄に乗っているとする。
半蔵門線に乗っているとか、日比谷線に乗っているとか、そういう自覚はあるわけだ。
なぜそのような見当識を持てるかというと、連続的な記憶があるからである。
生きているのは瞬間瞬間であり、未来も過去もなく寸断されているのだが、物事の経緯を記憶で繋いでるから、今どこで何をやっているかという見当識が発生するのである。
これが夢となると、その連続性が無くなるのだが、しかし、仮初めの見当識はあり、東京にいるとかニューヨークにいるとか、そういう「自覚」があるのだから面白いところである。

われわれは空間の一箇所にしか存在してないから、実は三次元を体験してないし、たとえば視覚であれば二次元を三次元に置き換えているだけである。
東京からニューヨークまでは一万キロだが、一万キロでも一キロでも別の場所である。
別の場所は別の場所であり、隣町とニューヨークは同等であるとさえ言える。
だが夢と現実の違いとして、一キロ歩けば隣町に行くがニューヨークには行かないという事実があるわけだ。

徘徊している痴呆老人は見当識がないと言われるが、記憶を繋げて現実を維持する能力がないのである。
さきほどの地下鉄の事例で言えば、あなたが痴呆老人でないなら、半蔵門線に乗ったとか日比谷線に乗ったという自覚を維持しているわけであり、たとえば銀座に買い物に行く途中であるとか、乗っている目的も知っているわけである。
その根底にあるのは時間と空間であり、それが現実なのである。
夢で擬似的な現実が生成されるのは、主観としては東京とニューヨークが隣り合っていても差し支えがないということだろうが、正真正銘の現実はそれを認めていない。
2017.08.13

人間の皮

人間の皮をかぶっていると言うが、そもそも皮しかないのであるし、この皮が筋繊維を殖やし臓器を形成し、精神なるものまでも創り出すのである。その人間の皮が、他の人間の皮を求めているだけである。皮が裂けて内臓でも見えようなものなら嘔吐するのであるから、どうやら皮にしか用がないらしいし、すべては人間の皮に従属している。このところ久しく凡人という言葉が死語になっており、蔑む意図で使われることは滅多にない。才無きことを恥じて懊悩する立場の人間はごく少数であるし、ネットの氾濫により、才なきことを咎め立てされない有象無象が幅を利かせているとも言えるが、凡人という言葉より、キチガイという言葉の使用頻度のほうが明らかに高くなっている。われわれが他者に攻撃的な言葉を投げかける場合には同調者を期待している。キチガイ呼ばわりは、関東大震災のときの「朝鮮人が来たぞ」と同じように連帯感を生む効果があるが、あいつは凡人だと言ったところで、それは正常さの証でしかないから、明らかな無効打であるどころか、むしろバランスの取れた人間だと礼賛していることになる。われわれの認識は森羅万象すべてを映し出す鏡ではない。人間の皮としての体験、それだけである。若い女の素肌は美しいとか、おばさんだからアウトだとか、人間の皮に似付かわしいことばかり考えているのである。洗濯機が洗濯するのと同じである。洗濯機には洗濯物しか見えない。そういう箱庭世界にいる。だから、まるで未来予知者のように、生まれつき社会の仕組みを知っている凡人が現れてくるのである。後からようやく気づく鈍感な人間からすれば、最初から気づいている人間は不可思議であるが、人間の皮として体験可能なことは、社会的動物として自明なのである。
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