KDDIの代理店から迷惑を蒙って業腹な経験のあるひとは少なくあるまい。そもそもKDDIの代理店の走りと言えば光通信である。光通信はDDI(第二電電)の代理店としてかなり荒っぽい営業をやって、悪い意味での一時代を築いたわけである。そのDDI(第二電電)は現在はKDDIとなっているが、代理店の荒っぽさは変化がない。光通信創業者の重田康光は半グレの典型であり、悪人ではあるが暴力団と接点がない。1992年に暴対法が施行され、大企業は裏社会と縁を切るということになった。光通信の創業は1988年で、DDIの代理店になったのもこの年からである。光通信が東証一部に上場したのは1999年であるが、90年代に光通信が躍進したのは、重田康光が暴力団と無関係の半グレだったからである。光通信が傘下の代理店に圧力を掛ける際には高額訴訟を乱発するのが手口であったし、光通信本体に暴力団は出てこない。光通信のビジネスモデルは携帯電話のインセンティブを悪辣な方法で吸い上げるという単純なものであり、「寝かせ」など誰でも思いつくようなものだから、DDI(第二電電)が被害者ヅラするのは如何なものかと思う。飼い犬に手を噛まれただけである。光通信の周辺には暴力団員も登場するが、これはITバブルの文脈で出資した企業に暴力団関係者が食い込んだという構図である。重田康光や光通信本体に暴力団は食い込んでいない。そして携帯電話販売の本業の部分では、暴力団と無縁と言っていいのである。暴対法以降の世相において、重田康光という悪人は暴力団と無関係であるメリットをかなり理解していた。どれだけ悪かろうが、暴力団でなければいいのである。光通信に関わって儲かった人はほとんどいないとされるが、重田康光本人は個人資産を確保して今でも億万長者である。このような問題をKDDIはまったく反省していない。いまだに新聞勧誘の拡張団みたいな半グレがKDDIの代理店をやっているのは、光通信の遺伝子ということだろう。
耳学問で生半可な愚見を述べるのは好ましくないが、世界最終大戦に白黒つけるわけではないし、むしろ卑近な現代システムについてなぜこうなっているのか、という思考の遊戯であるから雑然たる文章を書くのもいいであろうし、正解はわからんが、ポイントカードの跋扈を憂いている人間も少なくないはずなので、試し刷りのように書き綴ることにする。五万円の品物に五万五千円という値札を付けて、5000ポイント還元とか、昭和の時代の人間なら飛び跳ねて歓喜しただろうが、価格を比較できる昨今だとポイントが上乗せされているだけという実態に気づくわけだ。それでも家電量販店は盛時の勢いを失いながらも、まだまだ成り立っている。そしてポイントカード文化はペストのような悪疫となっており、レジの人からなにか言われるとポイントカードのことだと思うから「持ってません」「いりません」と反射的に答えてしまい、コミュニケーションに齟齬をきたすこともある。先日、たまたま税理士の先生と雑談をする機会があり、ほんの短い時間を埋めるために家電量販店のポイントは経費としてどういう扱いになるのかと、なんとなく尋ねてみた。税理士の先生いわく、会社の経費で買うとしたら、ポイントは自分のものにしても大丈夫らしい。5000ポイントは五千円と等価ではないし、その店でしか使えない縛りがあり、ポイントにポイントは付かないので、明らかに五千円より価値は低いが、とはいえ、金銭的な価値があるのも確かであるが、なぜか税務署はあまり厳しくないようである。むしろ会社の方が厳しく、経費を使うときには会社のポイントカードを使うことしか認めない、ということもあるようだ。そもそもポイントを含めたら明らかに割高なのだから、そうやすやすと家電量販店で社員に買い物させるとも思えない。そうやってお話を伺いつつ、ポイントを貯めるという阿呆なシステムが世の中から消えないのは、会社の経費で購入して、ポイントは個人のカードに入れる人がずいぶんいる、とも思ったわけである。家電量販店だけの問題ではないし、あちこちで会社の経費を使って、ポイントを自分のカードに付けている人がずいぶんたくさんいるのだろう。正解か不正解か知らないが、どちらでも構わない。
2018.10.08

不安とは

不安とはなんぞやと、それを敢えて一言で言うなら、悲観的な感情ということになろう。先の見通しが悪いことに慄えるのである。「気持ちの切り替え」で済むこともあろうが、いくら楽観視しようが借金苦の男の債務が減じるわけではあるまい。現実そのものは変わらないのである。未来は不確定だが、だいたい現在の状態から予見できる。力への意思で勝利するという物語にしてしまうと、これは不安の問題を棚上げにしてしまうというか、やはり勝利の可能性が見えないときこそ不安に襲われるわけで、目処が立たない苦境を大前提にしなければならない。世の中には借金を踏み倒すのが当然という御仁もいるから、不安とは内面の個性の問題と言えなくもない。つまり極端な厚かましさ、図々しさ、無感覚の類である。たとえば蛭子能収のような人間なら、何があっても平気かもしれないが、そういう箍が外れた人間は念頭に置かず、不安は人類普遍だと語るべきなのか、ということである。プラス思考/マイナス思考という愚にもつかない論で筆を走らせるのは気怠いし、それをやるなら文弱と武人を対比させて、武人の肝の据わり方というか、不安になるような戦況を度胸試しとして捉え、死を目の前にしても揺るがない胆力を示すという物語を語った方がまだマシであろう。あるいは、現実はわれわれを中途半端に打ち漏らしてくれるので、あっさり命を散らすことも簡単にはできないから、落魄の身として憂いを生きることも厭わない境地である。蒼白い文弱としてその暗澹たる生活史を最大限に描きつくすのもありだろうし、荊棘のような煩悶は生身の人間として生きている限り途絶えることがなく、この大地における王朝絵巻として誰が本物の貴種で誰が賊徒かという内面的な闘争でもある。
https://twitter.com/lp_announce/status/1045542798450077697
京都大学


個人差はあるが、人間は愚痴を言うわけである。愚痴というのは本音/嘘という対立軸では捉えられない。愚痴はあくまで「現実への不満」であり、現実が嫌になったときの憂いである。たとえば現実的に分相応な結婚をしていても「こんな相手と結婚しなければよかった」と言ったりするわけである。そういう愚痴にマジレスされて困惑することもあるだろうし、あるいは、愚痴がエスカレートして本当に離婚することもあるだろう。つまり、人間は最高の理想を実現しながら生きているわけではないので、いわばレトリックとして「京都大学に行きたかった」という表現が生じるのである。理数系だと京都大学は優秀だけれども、文系で超エリートコースを志願している人は東大に行くわけで、エリート東大生を忌避する意味では京大の方が有村さんにフィットするかもしれないが、こうやって考えること自体が無意味である。有村悠さんが「京都大学がよかった」とうそぶいたとして、(もう39歳なので進路相談するはずもないが)、「有村さんだと京都大学の方が向いてますね」と薦めるのは意味がなかろう。東大にギリギリ合格するためにガリ勉丸暗記詰め込み教育をしたのだから、京大だと種目が違うかもしれない。ともかく愚痴とは心の乱れであり、時としてそれが言霊として重みを持ち、あまり現実的ではない隘路を感情的に突き進むこともある。愚痴を言っている御本人が愚痴だと弁えているなら、自らの発言に引っ張られることはなかろうが、たとえば他人に焚き付けられて、それに乗っかってしまうこともあろう。本来なら本音/嘘という区分から外れているのだが、勢いで愚痴が本音となることもある。そもそも本音というのも謎であるし「こんな人生は嫌だ」という愚痴は本音と言えば本音だし、理想ではない世界を生きているわれわれが篋底に秘めている根源的願望とも言える。ともかく愚痴はレトリックと言うか強調表現であり、現実的な決意表明などではないのである。時として引っ込みがつかなくなることもあろうし、あるいは他人としても、愚痴を愚痴として踏まえて聴いてあげるのもしんどいので、愚痴は言わないほうがいいのだが、愚痴っぽい性格は治らないので致し方ない。
2018.09.23

肉体と点

宇宙や地球のスケールで考える時に肉体を点と表現したくなるが、果たしてそれは正しいのか、という問題。「幅」があるからこそ空間であり、点はあくまで概念である。われわれの肉体は「幅」があるので点ではない。頭と手と足は繋がりながらも幅があり、同一の点には帰し得ない。地球という空間において人間の位置を示す場合に点として示すのは妥当であろうが、三畳間に一人の人間が住むとなれば、肉体は「幅」、つまり面積として捉えなければならない。ここからさらに筆を伸ばすとわたしの能力では心もとないが、やはり肉体には幅があり、これを広大な空間に比して考える時には点で略しているのである。われわれ人間は多細胞生物であるが、頭部や手足まとめて「ひとつ」なわけである。右手と左手と右足と左足がそれぞれ異次元ということはない。その一体感のある肉体を使いながら、歩いたり走ったり、狭苦しい三畳間で手足を折りたたんで寝込んだり、幅のある空間を体験しているのである。ではわれわれの体感が空間そのものかと言うと違うであろうし、たとえば重力を「重い」と感じるのは身体の感覚表現であり、いわば信号の色のようなルールというか、そこに必然性はない。肉体感覚で感じ取っている空間と、空間自体は同じではない。では空間自体とはなんぞやというと、これも謎である。空間現象だけがあり、空間は情報にしか過ぎない、ということも可能だ。ゲームでマップを動き回って、その座標の風景が描画されるような具合である。とはいえ、肉体がある状態で思考している限りは、連続的な「幅」がある空間に疑念を差し挟むのは難しい。
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