おそらくこの二年くらい、わたしはほぼ毎日欠かさず南條愛乃さんの動画を見ていると思うのだが、なにしろ実物が不細工なババアなので、未だに飽きないのが不思議である。ポージングの美しさに尽きるのであるが、その本質は静止である。何が美しいのか、というのは、あらかじめ決められている。美しいから美しいというトートロジーである。137億年前に宇宙が始まった時にそんなものは決まっていないから、あくまで地球上の生命体の感性の問題である。たとえば目と鼻と口という並びに根拠はあるまいが、違う並びの人がいたらグロなわけであり、その基準はなんぞやといえば、進化の偶然性であろうし、どこかで発生した美的感覚において美であれば美なのである。美的感覚が主役であり、生命はそれに従う。動作の美に関しての最大の法則は、挙動不審は見苦しいということである。ADHDが教師から馬鹿にされるのは、身体が勝手に動いているからである。わかりやすい事例は貧乏ゆすりだが、しっかりしているタイプの人間はそういうダラダラした動きはしない。なぜ静止が美しく、貧乏ゆすりが醜いのかというと、これはそう決っているからである。中枢神経がコントロールされているときちんと静止しているのだが、EQ的にオツムが緩いと、いわば死体の痙攣のように身体が勝手に動いている不気味さがある。静止というのは動作と対極と見られがちだが、動きの美しさという意味では、どちらも同じである。南條愛乃さんは、静止状態がきちんとしており、余計な動作がない。それでいて、堅苦しさは寸毫たりとも無いのである。ADHDが無理矢理に座らされているのではなく、姿勢が本当にきちんとしているからである。道元禅師が坐禅を苦にすることがないように、南條愛乃さんの折り目正しく凛とした立ち姿は、人類普遍の美学に従って誂えたものであるから、これが窮屈であるはずがない。正装で折り目正しい立ち振舞いをすることに苦痛がないから、肉体が飢え渇いて貪ろうとする騒擾や葛藤とは無縁であり、これは至って無我の境地である。天体の運行のような調和があり、山岳信仰のような端然とした崇高さがある。たとえばアドリブで動いたりしても、美しさはひとつも減じない。南條愛乃さんが動くことで、静止状態が破綻することは微塵たりとも無いのである。制御の糸が切れたような余計な動きがないことが重要である。本人が不細工なババアであるということは、ここではまったく問題ではなく、いわば歌舞伎の女形のように、美の理法を授けられた演者として、その本質を体現していればいいのである。どれが「余計な動き」でどれが「余計でない動き」なのかを言葉で説明するのは難しいが、われわれの美的感覚としては、見るだけですんなり腑に落ちる問題である。邪悪な精神が身体動作の軌道を枉げているなら、それは余計だと言うしかない。
2017.06.08

大人と親

かつて親は「大人の言うことを聞きなさい」と子どもに言っていた。
つまり、大人というのは、親から委任された存在であり、大人に逆らうなら、親の命令に逆らうのと同じだったのである。
最近では、そこらのおっさんを不審人物だと見做すことになっているが、これは親がそういう判断をしているからであろう。
ごく普通に近所の顔見知りが減ったという事情もあるが、「大人は怪しい」と子どもに教えているのだ。
これは適切であるだろうが、ともかく、誰の言うことを聞くか聞かないかは親が決めている。

かつて医者はすごい偉い存在であり威張り散らしていた。
これも親が「医者にだけは逆らってはいけない」と教えていたからである。
そういう教えがなくなったから、医者に不満があれば逆らう患者がたくさん出てきた。

学校教師も同じ話であり、昔の親は「先生の言うことを聞きなさい」と子どもに言っていたはずである。
最近は言わなくなったから、それに見合った関係になっている。

核家族化された社会であるし、もう親は「大人の言うことを聞け」と子どもには言わない。
ケースバイケースであろうし、これは家庭の価値観の問題だが、全体的に「大人の言うことを聞け」と言うことが減少している。

良し悪しについて、長々と述べるのは無益であろう。
だいたいの大人は親から委任されなくなったということなのである。
「医者に逆らってはいけない」と親から言われてない患者だらけになったのであり、これは時代の変化に伴い、上の世代まで浸透していると言える。

われわれが親から教育されているというのは、一種の誤解なのである。
実際は親から「教師の言うことを聞け」と言われて教師に隷従するとか、そういうことなのである。
親が「うちの子は悪くない」と居直るのはDQNの特徴だが、親がどれだけ他人に委任するかどうかで子どものパーソナリティーも決まる。
親が「うちの子が悪い」と卑屈に頭を下げるのも困った話だし、DQNのたくましさを考えると、このあたりはバランス感覚である。
2017.06.06

快楽と暴力

かつて有村悠さんが「俺には怒りの感情しかない」と言ったことがあるが、これはADHDにありがちな罠である。
テンションが上がるまで怠けているのがADHDだが、こういう怠け者が立ち上がる撥条になりやすいのが怒りという感情である。
怒りは快楽と真逆ではあるが、瞬間的に沸き立つ衝動性は通底している。

ADHDはリソースの配分が苦手であり、喩えるならマラソンで全力疾走するようなものである。
全力しか出せないから、すぐに力尽きてリタイアする。
定型発達者にはリミッターが装備されていて、適度に力を抜きながら長距離を走れるが、ADHDにはそれがない。
このような短距離走者としての気質があると、スイッチが切れている時間が長くなるし、スイッチが入るとなれば、どうしても快楽と暴力である。
それ以外のことは気長にやらないといけないから向いてないのだ。

ADHDがいろんなことを先延ばしにするのは、全力を出せなければ何もしないという判断なのであろう。
テンションが上がるまで待っているのである。
定型発達者はやる気(高揚感)がなくても活動できる。
そもそも普通の人は全力を出してないし、いろいろと加減しながら生きているから、高揚感が最高度に到達するまで怠けて過ごすことはない。

有村悠さんのケースで言えば、締切直前に過集中で艦これ同人誌を仕上げることで、これまで累計2万部を売っているようだから、たまたま気分の高まりが金銭的な成果(快楽)に結びついており、以前のような凶暴性は見られなくなっているが、相変わらずトラブルメーカーではあるようなので、この小康状態がいつまで続くかはわからない。
こういうドストエフスキー的な人物が小さな成功を収めつつあるのは、何らかのフラグのような気がしてならない。
人間は交換可能な存在である。岩崎友宏にとって、冨田真由さんでなくてもよかったはずであり、若くて美人なら誰でも交換可能だったはずだ。それにも関わらずロックオンを外さないというミステリーである。ロックオンという単語は相思相愛の場合には使わないであろうが、もし、相思相愛をロックオンと呼んでもいいのなら、常識人もロックオンしあっている。片想いと相思相愛は線引して然るべきであるし、ロックオンというのがネガティブな言葉なら、相思相愛に用いるべきではないだろう。とはいえ、やはり誰しも特定の誰かをロックオンしているのである。だから、ひとまずこのエントリーでは相思相愛もロックオンだということにする。この世界に74億人いるとして、ほとんどの人には会ったことがない。だから、われわれは既知の誰かにロックオンして、そこからすべての理想が紐解かれる夢を抱いている。一人の人間に向かって74億人を求めているのである。婚活とかナンパで未知の相手を探し回ることはあるにせよ、そういういかがわしい目的がなければ、われわれは狭い人間関係にとどまっている。だから常識人でも、特定の親友や配偶者にロックオンする。常識人が結婚するとすれば、お互いに「この人しかいない」と思うわけである。果たしてこれが岩崎友宏と区別できるかというと、何とも言えないのである。やはり「この人しかいない」という感覚は同じである。岩崎友宏の異常性については論を俟たないだろうが、むしろ、常識人が「この人しかいない」と結婚する仕組みの方が不思議である。品定めや選り好みをしながらも、「この人」という交換不能なところに着地していくのである。いくら人間が交換可能とは言え、現実に出会ってなければ無と同じであるし、実際に人生において接した狭い人間関係こそが、具体的に肉付けされた物語なのである。想像上の人物と、具体的な人物を比すれば、後者の方に質量がある。ここにはやや欺瞞があるだろうし、代えがたい人間などいないのであろうが、いわば現実は乗りかかった船と言うか、やり直せないので、その一回性の因縁こそが真実だと思い込むのである。また、相手をかけがえのない存在と見做すのは、真剣さのアピールでもある。このような真剣さで盟約を結ばなければ、われわれは交換可能性の中に埋没してしまう。他人から真剣な好意を持たれて、代えがたい存在だと思い込まれるのは恐怖でもある。ロックオンに重みがあるからこそ、相思相愛の愉しみもあるのだろうが、あちこちでブロックされまくった岩崎友宏が、日暮れて道遠しという風情で人生を歎じながら、最後の最後に辿り着いてくる災難もある。相思相愛に限ってロックオンは許されるという常識的な考えに丸めてつつがなく筆を置くのは可能であるが、一人の相手に思い焦がれて眠れない夜を過ごすのは誰しも経験するであろうし、相思相愛になろうと契約書に捺印してから、ようやく重い腰を上げてロックオンし合うわけではない。われわれは量産された骨組みを持ったプラモデルではなく、個性的な顔を持った唯一無二の存在であるらしいが、これを成り立たせているのは、特定の相手への執着である。この執着がなければ、月明りが縹渺たる白骨の群れを照らしているだけの世界になるだろう。愛情が特定の相手に向かって焼き付くように像を結ぶからこそ人間なのだと言えよう。ロックオンされたらなかなか遁れられないのも、それが愛着の幕開けであり、その執念深い持続性こそが人生という物語の本質だからである。
arimuradesite.png



有村悠さんは6月11日がお誕生日だったと思うが、そろそろ38歳になられるはずである。
これまで艦これの同人誌を15冊くらい出していて、累計で2万部を越えているという。

今回は自分の作品が違法アップロードされていたという。
その原因をDLsiteという販売元のせいにして騒いでいた。
これはまったくの事実誤認だったようである。
該当のツイートは消したようだが、500くらいRTされたようである。
かつて東京大学に合格(中退)したことがあるにも関わらず、時系列をまともに理解せずあらぬ疑いを掛けるとか、この罪は極めて重いであろう。
慰めのリプをしてくれる人もたくさんいるようだし、はるかぜ親子と大差がない。
このところディスプレイを破壊したり手首を切ったりという破滅的な行動は収まっていたが、やはりまだ完治はしていないようである。
自傷行為をやめただけであり、他人を傷つけるのはまったく変わりがないようだ。
最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング