通俗的な理解として言えば、われわれが他人を怖がるのは殺されるのを恐れるからである。
もちろんこれは間違いではない。
刑務所に入りかねないチンピラを怖がるのは当然であり、これについては論を俟たない。
たとえば関東連合に絡まれたら平謝りしておかないと、本当に殺されるケースだってあるわけだ。

だが、そういう犯罪的な事例だけに焦点を絞ると、怖い人の本質を見誤る。
また喧嘩の強さ弱さに着目しても見誤る。
喧嘩ということで言えば、泣いて許しを請う子どもがたくさんいるが、そうでない子どもが時たまいて、それが怖い人なのである。
懐柔することなど決して出来ないような目の据わり方とか、他者への蔑みの強さなど、これがわれわれには畏怖なのである。
教師から観ても、そういう子どもは怖いから尊重されるし、すぐに泣いて命乞いする子どもは馬鹿にされる。

やはり「怖さ」について考える場合に、生命の危機に矮小化するのは問題を見誤る。
こちらが生命の危機を感じているというよりは、相手が生命の危機を感じてないことがポイントである。
腕力がある方が強いという単純な話ではないし、命乞いした方が負けなのである。
学校での喧嘩で、命乞いしなかったから殺された子どもがいるかというとほとんどいないはずだから、命乞いが生命維持のための欲求という通俗的な理解はかなり疑問がある。
たいていの人は物事を総花的に飾り、言葉を丸めて、全体的なバランスを取る。実際のところ、この暗澹たる灰色の世情において、物事はAともBとも言い難く、どちらも一長一短あるケースの方が普通であるから、保身のためだけでなく、それなりに社会全体の損益分岐点を探りつつ、バランスを取って中間くらいのことを言っておくわけである。ニーチェは社会学者ではないし、それはいいことだが、あくまで哲学者もしくは文学者であるから、均衡点に擦り合わせるべく言葉を丸めることはない。ニーチェは24歳で大学教授になったはいいが、25歳で普仏戦争に志願した時に健康を損ねて、それが癒えることなく死ぬまで病に煩わされる境涯となった。この病という拷問器具に締め付けられ、神経毒に蝕まれることによって、病者の光学を発見したのである。健康な身体で社会に馴染むという人間らしさが欠損しているからこそ、厭世主義を強者の論理で克服する自己啓発的な夢想を繰り返した。この病者の光学において、人権などは顧慮されない。たとえばニーチェは貴族主義を礼賛する。これもひとつのレトリックである。ニーチェは奴隷根性を憎んでいるから、それを貴族礼賛として表現しているのである。奴隷に甘んじることへの嫌悪が根底にあるのだから、奴隷に応援歌を送るような記述も可能であるはずだが、間違ってもそんなことはしないし、露悪的な差別主義者として奴隷を徹底的に叩き潰し、人間の本質を暴露していく。どうせ発狂して心神喪失になるのだから社会的立場に配慮して右顧左眄する必要などない。CMタレントではないし文化人でもないから、一切丸めないし、奴隷への反感は徹底して尖らせている。「ツァラトゥストラ」の途中から自費出版であるから、筆禍事件の懸念がないのでなんでもありだし、どれだけ筆が滑っても差支えないので、表現を丸めはしない。物事は極端に表現してみることで、曖昧さが縹渺として広がる世界の裏側の生々しさを露わにすることもある。そしてニーチェの貴賤の感覚からすると、貴族の家に生まれたから貴族という話ではないから、自分こそが超人だと誤読することは可能であり、ボーンアゲインとして新たな自分を揮毫することも可能であるし、仮象をこの世界に真実として描けるのである。なんにせよ、読み手の側が好意的に解釈しているから、ニーチェはかなり広く受け入れられている。奴隷や弱者を糾弾する露悪的文章が、あえてヒールを演じている人類愛として読まれている側面もある。そこまで計算しているわけではあるまいが、そういうトリックスターとしての位置を確立してるからこそ、哲学書など読まない人でもなんとなく知っていたりするのである。
実のところ、われわれは親から教えられるというよりは、親の代弁をする他人からとやかく言われることがずいぶんあるのだ。
なぜ赤の他人が親に仮装して文句を垂れるのか、至って不可解と言うしかない。

この不可解さを紐解くなら、とりあえず実親から「他人様の言うことを聴け」と言われているからであろうし、他所様に迷惑を掛けるなとか、そういう物言いで他人への隷従を強いられている。
赤の他人はわれわれの親から委任状を受け取っており、親の代弁をするのは親が認めている。
他人様と明示的に社会契約しているはずがないし、書面に記しているはずはないのだが、なんとなくそうなっているのだろう。

おそらく人類は古今東西そうなっている。
赤の他人との結節点がせいぜい親くらいしかないからであろう。
そこらのオッサンを父親だと錯覚し、そこらのおばさんを母親だと錯覚し、人類は生きてきたのである。

ここには当然ながらヒエラルキーが組み込まれている。
運動部の先輩が後輩をリンチ出来るのも、やはり先輩は面倒を見る立場であり「親同然」だからである。
扶養してくれるわけでもない先輩が「親同然」とかわけがわからないが、世の中はそういう錯視に満ちている。

親がなんとなく「他人様の言うことを聴け」と委任している変な状態には終止符が打たれなければならない。
われわれはそこら辺のオッサンを赤の他人と看破することを覚え始めており、彼らに父親面などさせないようになってるが、おそらくこれは人類の成長である。
すべての係累は絶たれなければならない。
赤の他人は赤の他人であり、親の仮面を被って現れるのを認めてはならない。
不思議な事だが、拒絶と執着は同じである。絶対にやらない、のと、絶対にやめない、のは同一の心理である。何かに執着して365日不眠不休でやり続けるのと、何かを拒否して365日寝ているのは同じなのである。これは自閉性の問題に他ならないので、発達障害と括って終わりにするのは容易いが、とはいえ、「やる」と「やらない」が同一である不可思議さは、人間普遍のものである。われわれは他者から隔絶されているので、人間誰しも自閉性があるが、おそらく常識人と言われる人は軽症であるから、柔軟に調整するのがうまいのであろうし、力の入れ方が適切なのである。頑固だと言われる人はこの調整ができない。自閉状態に陥った人間にとっては、何もやらないのと、取り憑かれたようにやり続けるのが同一なのである。熱中するのは何もやってないのと同じというと如何にも奇妙であろうし、たまたま有意義なことにリソースを割いていれば、「何もやってない」などとは言えまいが、しかし、熱中と拒絶は似ているし、まったく見当違いのことに熱中していて、「何もやってない」のと変わりがないことも多々ある。ここで補助線を引くなら資本や労働や賃金の話になるであろうし、その埒外にあるものは社会化されていないので、すべては非生産的=無であるという論理を導き出すのも可能である。他人から頼まれておらず、自ら自分の時間を使うということになると、熱中と拒絶が似通ってくる。では、本当に価値ある活動とはなんだろうかというと、これは究極的には難しすぎる問題、もしくは素朴な価値判断としては当たり前過ぎる話なので、論を広げるのは差し控えておいた方がいいであろう。とりあえず他人から頼まれたことをやるのが無難だという常識的な結論は出せるし、拒絶と執着は同じと冒頭に書いたことについては、自分で考えた独りよがりなことは、やってもやらなくても同じだと言い得るが、それだけのことである。
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この何年か、中元や菊地のように「アイドルを馬鹿にするアイドル」という厭味な勢力が版図を広げわれわれを煩わせている。目を三角にして怒るのも疲れたので、この腐れ外道の不行跡は放置しているが、外タレ気取りですっかり勘違いした御様子である。もちろんBABYMETALの人気など、欅坂にまったく及ばないが、平手友理奈が国民的スターになれるかというと、ちょっとむずかしい。ステージでの立ち姿にオーラはあるが、周囲が生かされてないので求心力を感じない。平手友理奈によって世の中は微動だにしていないのだから、センターというよりはワンマン社長という印象が強く、求心力のあるヒロインが誕生したわけではないので、これはまったくアリス・イン・ワンダーランドではない。この愁傷深くうんざりさせられるディストピアにおいて、傷病兵として横たわる褥瘡の痛みに終止符を打ち、世界地図を塗り替えようとしているのが松下玲緒奈である。平手友理奈は所詮はAKBと地続きであるが、松下玲緒奈は革命家である。まねきケチャはフォースミュージックという無名レーベルから「メジャーデビュー」したことがあるのだが、そこは倒産したか、もしくは別の形で任意整理したのかもしれないが、ともかくレーベルとしてはお亡くなりになった。行き場を喪い大陸浪人としてアイドルシーンを眺めていたはずの彼女たちだが、数奇なことにこれを拾いに来たのが世界最大のレコード会社であるユニバーサルミュージックであった。アップフロントが鞘師里保さんをリンチしてドブに捨てたときにマツコ・デラックスが怒鳴り込んできた一件があったが、捨てる神あれば拾う神ありというか、やはり見てる人はちゃんと見ているのである。松下玲緒奈は世界を転覆させ、腐敗を焼き尽くすために歴史に現れるのであるから、ナポレオンやドナルド・トランプの系譜に属する偉大な特異点として、廃疾者にさえ血を通わせる磁場となり、歯車が回転していくのである。松井玲緒奈は広瀬すずを思わせる容姿で、アイドル性が極めて高い。もしくは広瀬すずでなければ、広末涼子のイメージでもあり、不祥事の火薬庫という懸念もあるが、時代の寵児となることに疑いはない。松下玲緒奈という姫君の王朝は長続きはしまいし、スポンサーに多額の違約金を支払わされる通俗的な結末もありそうだし、ユニバーサルミュージックでの栄耀栄華も短命であろうし、セントヘレナの獄舎を終の棲家とするのだろうが、この偶像不在の端境期に瞬間的に現れる奇瑞であることに疑いはなく、その蒼天に煌めく姿は、ほんの瞬間であれ森羅万象を照らし出し、万古の憂いを癒やすものであろう。また、このまねきケチャはかなり強い隠し玉を持っており、藤川千愛というメンバーの歌唱力が凄まじすぎる。まねきケチャはマイクのエコーが強めなので、最初に現場で聞いた時はわたしも懐疑的だったのだが、もう一度ちゃんと現場で聴いてみて、これは本当に桁が違う物件だと確信した。メンバーの中で一際パワフルな歌声を持っており、中元すず香と同等の声量があるとは言わないまでも、それに近いくらいはある。中元は歌自体が下手くそなので生涯その獣声を武器にしたデスメタルしか歌えないだろうが、藤川千愛は演歌歌手だった祖父から薫陶を受けているから何でも歌える。藤川千愛のような超一流の歌い手でも、演歌はくどいし二時間続けて聴きたくないのも事実だが、松下玲緒奈のハスキーな歌声も魅力的であり、これを重ね合わせると、人類史で最も魅惑的なツインボーカルとなるのだ。松下玲緒奈と藤川千愛が同じグループにいるのは奇跡であり、喩えるなら、平手友理奈の後ろで安室奈美恵が歌ってるような感じなのである。またBABYMETALはアーティストと名乗っているTシャツ販売業者であるが、松下玲緒奈のTシャツの方がセンスがありそうだ。気になるのはまねきケチャの藤咲真有香という子が病んで休業しているそうで、これだけ勢いがあるのにリタイアするのは謎である。映像を見るとかなり容姿もかわいいし、すごく優しそうな性格に思えるから、この優しさに依存する厄介なオタも多そうである。血腥い地獄をあまねく歴訪し、人類のあらゆる醜さや憎悪、愛や官能に触れながら、松井玲緒奈のワンダーランドを建国するべく、須弥山の頂点に軍旗を掲げようと言うのだから、世界最終大戦に参画する軍属としての資格の問題であるし、血で書かれた文字にしか価値はないとニーチェは言ったが、優しすぎる人間に用はないのであろう。
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