東浩紀のゲンロンカフェがゴタゴタしているらしく愚痴ツイートを繰り返している。御本人が仔細まで述べてないから、言葉を濁している部分は想像で補うしかないが、社員に「裏切られた」らしい。横領ではないそうだが、何かしら経理面で杜撰なことがあったと思われる。そこそこ人望のある社員だったが、裏の顔があったらしい、とかわたしもよくわからんが、ともかく、このところ東浩紀は尻拭いのため経理のお勉強に忙殺されているそうだ。ゲンロンは閉鎖しないそうだが、ひとまず規模の縮小というか、今まで社員が九人だったのが四人に減るそうだ。東浩紀は筑駒で二番だか五番だかの成績だったのが御自慢であり、秀才ではあるのだろうが、ソーカル事件(ジャック・ラカンの高等数学の知識が出鱈目だと理数系の大学教授に晒し上げられた事件)の影響で、フランス現代思想の知識がむだになってしまった。東浩紀は天才でも何でもないから、その学識に疑義が呈されたとなればただの無知である。財務官僚になろうと思えばなれていたのだろうが、いまさら経理のお勉強をしているようでは、そこらの阿呆と大差ない。思想のお勉強が無駄になるというのはマルクス主義の学者もそうだったのだろうが、むしろマルクス主義なら思想そのものは面白そうだし、フランス現代思想は同じデタラメでもレベルが低い。「ぼくひとり儲かっても人文知の復興はないからって発想で、ゲンロンではあえてそういことやってなかったんですよね。でももうぼくも自分の利益だけを考える年齢かもしれないですねー」という発言もしているが、東浩紀のようなセミプロはネットの害悪のひとつである。たとえば初音ミクでも、最初はアマチュアの文化だったのが、だんだん食えない音楽家の発表の場となった。いや、アマチュアよりセミプロの方が優れているのだろうし、そもそも他人の表現活動を禁じる権利などないのだが、職業的なセミプロよりは純然たるアマチュアの方が面白いという側面もある。発表するのは自由だから、それを阻止するという話ではないが、セミプロは技術はあっても所詮はプロの二軍だし、それに似つかわしいつまらなさがある。たとえばアマチュア枠の有村悠さんの方が、ロックスターとしてわれわれを楽しませているし、これぞ高卒レベルという日本史の知識をツイートしているのも、いずれ、いずれ、いずれは大川周明のような碩学になるための苦難とも言える。東大で西洋史学を専攻したら退学処分になった経緯を考えるに、日本史に挑戦しても結果は同じだろうが、しかし、しかし、アマチュアならではの面白さというのもあるわけである。
他人の意思を尊重しなければならないという正しい意見はともかく、われわれは他人の意思を左右することを目指している。他人の意思を支配下に置きたいのである。たとえば他人を善導することが、独善的であるにせよ、われわれの目的なのである。そもそも意思とはなんぞやといってもよくわからないが、何かしら選択肢の問題であろうし、その他人の選択に介入したいのである。「悪い影響」という言い回しがあるが、われわれは何者かに感化されて存在している。いろんな意味で、良くも悪くも影響関係なのである。自由/不自由について言うなら、好んで影響を受けるのが自由で、好んでないのに影響を受けるのが不自由という通俗的な分類は出来るが、ここで正しい意見は述べない。人間は模倣する存在であり、知らず知らず他人を真似てしまう。毒親とロールモデルは、快楽と苦痛が同文脈であるとするなら同列に並ぶ。洗脳という言葉があるが、これは「悪い影響」という価値判断を含んでおり、他人に影響を与えるという人間の基本原理について、気に食わないものだけを揶揄しているのである。ビートルズを真似すると不良になるとかいろいろ言うのも、影響への畏怖やその阻止なのである。教育論というのは、要するに他人の意思に好影響を与えたい独善主義者が唱えるわけである。誰かの意思を巡ってスカウト合戦のような争奪戦が起こるのはわれわれの日常の光景である。われわれはいつも選挙運動をやっている。命令者たらんという欲求を持つ人間が賢明とは限らないし、下手くそに限って教え魔ということもある。劣悪な人間が世間を善導するべく選挙に立候補するのは致し方あるまい。物理的な暴力で他人の肉体を支配するのは、「よい影響」「悪い影響」を超えることもあるが、物理的な暴力を使いつつ時には優しくしたりして他人を飼うドメスティック・バイオレンスな行為については、相手の意思を無視しているように見えながら、実は相手の意思に重大な関心があるわけである。劣悪な先輩がただ後輩を支配するために理不尽な命令を繰り返すのは、後輩そのものには関心がなく、自らの政治的立場を守るためであろうから純然たる権力欲求とも言える。とはいえ、そういう暴力的な絶対支配もやはり思想的に染め上げる必要があるだろう。さて、このエントリーは正しい意見を書くことが目的ではないので、もっともらしい結論はつけないが、他人の意思を巡る力学について類聚的に書き綴ってみた。
Apple Pencilについて思うところを縷々と書き綴る。新型iPadに合わせて新製品(第二世代)が発売されたようで、あれこれ改善もされたようだが、アップルが新製品を出すたびに買うわけにはいかないので、あくまで旧製品について書いている。そもそも製品レビューではないし、Apple Pencilそのものについての雑考である。さて、このところフリクションボールという凶器が蔓延しているが、消えるボールペンという紛らわしさ、たとえば重要文書の改竄の恐れだけでなく、あれは推敲を否定しているから使うべきではない。原稿用紙の余白に言葉を補った経験のある世代にとって、ただ書き損じを直すだけのフリクションボールは笑止千万である。ちゃんと推敲して文章そのものを直せ、ということである。朱筆を入れる替わりに元の文字を消して書き直すことが、文明の進歩とは思えない。Apple Pencilだと書き直しが当たり前であるから、「改竄」について懸念する必要はないし、そもそも大幅な推敲ができる点でフリクションボールとは話が違う。アプリにもよるが、たとえばOneNoteでも、Apple Pencilで書いた文字を移動させたり、もしくはすでに文字が書かれている箇所に空白を挿入して、そこに書き足すこともできる。文章の一部を削除して空白が生じたら、その空白も詰めることができる。つまり余白が伸縮自在で、加筆修正できるのだ。推敲したいならテキスト入力でやればいいという話もあるだろうし、Apple Pencilで手書きするとなると、つまり画像データのようなものだから容量も大きいので、何百ページもある長文なら素のテキストのほうが適しているのは言うまでもないが、手書きに回帰しておかないと文字を忘れる一方であるし、ともかく推敲を加えた綺麗な手書きノートを作りたいなら、Apple Pencilである。デジタルで手書きするマイナス点として、他人に画面を触らせたくない、もしくは相手にそのような気を遣わせることである。Apple Pencilの使い方の模範映像などを見ると、美男美女が和気藹々とiPadの画面を囲んでなぞったりしているが、やはりタブレットやスマホの画面を他人に触られたくないという心理は誰にでもある。所詮は雑菌まみれであるが、自らの手の雑菌と他人の手の雑菌は違うというのが人間の衛生観念である。この衛生観念は虚妄とも言えるし、電車の吊り革に触れないのは強迫性障害(つまり観念の歪み)とされるわけだが、自ら馴染んでいる雑菌と他人の雑菌の違いと言えばいいのか、言語に絶する不潔な人間もいるであろうし、虚妄のように思えて虚妄ではないこともあろう。やはり他人の前にiPadを出して、そこに書き込みながら説明したりするのは、相手も遠慮するであろうし、向こうがiPadを取り出したとしても、やはりそれにベタベタ触るのはまずい。そこらの紙に殴り書きしているなら、気軽に触れるし、話のやり取りをするには安っぽい紙のほうがいいということになる。プライバシーとして自分のスマホやタブレットを他人に見せたくない感情については言うまでもない。さて、Apple Pencil的なものの今後を考えると、PDFの不自由さはいつになったら克服されるのか、ということである。PDFに自分の手書きで注釈をつけたりできるのがApple Pencilの面白さのひとつだが、やはりPDFそのものが不自由なので、意外と使い所がない。パソコンでPDFを抽出して並び替えたりする手間のほうがとても億劫である。そもそもPDFを編集するとなれば、それなりに高価なソフトが必要、もしくはたまたまパソコンにソフトがバンドルされているか、ということになる。電子上の「紙」の代表格がPDFである限り、タブレットに手書きというのは、その可能性の一部しか開き示せないのである。現状では普通の紙に油性ボールペンで書くのが望ましいという結論にもなってしまうが、手書きして推敲するのが人間知性の基本であり、フリクションボールは書き損じを訂正するだけだから反知性主義者のツールである。
われわれは後半生になるともっと勉強しておけばよかったと悔いたりするが、前半生にガリ勉しすぎて有村悠さんのようになっても困る。健全な人間になるためには青春を謳歌しなければならない。有村悠さんのようなガリ勉は、老人のような少年時代を過ごし、老人のような青年期を過ごし、そして子どものような初老の男性になっていく。これも人間性のひとつであり、誰もが周辺世界に適応してスイスイと泳いでいるわけではない。有村悠さんは東大受験のために九州の山奥で地獄のようなガリ勉をした過去があり、いわば西方浄土を想見した修験者だったから、生まれついてのドクズではないので、挫折したビルドゥングスロマンの典型とも言えるし、インチキな人間であるにもかかわらず、青春の葛藤で自壊した様子が何かしら生々しい抜け殻として文学性を持っている。東大合格後も歴史年表片手にガリ勉していればよかったのだろうが、青春という悪魔に取り憑かれて背伸びして煩悶し不登校になった経緯が、あまりにもバカバカしいことながら、その愚かしさこそ若さとして人間普遍のものに思える。東大アニメ研究会でカラオケをした時に高嶺の花の美人東大生と廊下で二人きりになって告白して面罵されたのが不登校の直接の引き金であり、これを失笑するのはたやすいにしても、まさに持たざる人間ならではの通過儀礼である。その試練を乗り越えてないのだから通過儀礼ではないのかもしれないが、通過儀礼を乗り越えられないのが人間らしさである。学問と青春は二者択一ではないはずだが、いつ使うかわからない学問と、目の前に顕現している色香はまったく違うのであろう。青春という病気に取り憑かれた若者が、いわば極左冒険主義者のように短絡的な蹶起にたどり着くこともままある。だんだん若さを失うと、きらびやかなものへの憧れもなくなり、瘴気漂う俗界にも鼻が馴染んでしまうが、若い頃は百花繚乱たる華やかさを夢見て、その輪に入るための武器を短絡的に求めるものである。若さの特権というが、その特権性と照応するように理想主義が差し迫ってくる。教父から課せられた天命のようにして理想世界を求め、かくあるべしという観念に押し潰されるのである。若さがなくなると、憑き物が落ちるように観念世界が滅亡し、記号性や象徴性を失った俗世間の実態がそのまま見えてくる。東大文学部西洋史学科を退学処分になっている有村悠さんは、ここ数年、高卒レベルの日本史の薀蓄を切り貼りしているが、疾風怒濤というべき青年期が終わり、わずかに気が長くなったのかもしれないし、こうやって遅きに失して学ぶのも人間らしさである。純然たる思想犯罪者たるには肉体の若さが必要であり、眼の前の現実とは別の光景を錯視するような感受性が必要だが、それが枯れて鈍磨するのは何らかの救いであるかもしれない。
本を読んでも今ひとつ世の中のことがわからないのは、実務的なノウハウを公開する人が稀であるということだし、つまるところ飯のタネであるから、洗いざらい書くわけがない。たとえば板倉雄一郎の「社長失格」などは、人生経験をかなり率直に書いた稀な事例だが、こういうふうに仔細に渡って告白してしまうのは、大きな失敗をした人とか、刑事事件になった場合に限られる。もちろん「社長失格」が正真正銘の赤裸々な告白かどうかは知らないし、あちこち文飾が施されているのかもしれないが、あくまで事例であるし、ともかく稀なのである。大過なく生きている人は「告白」しないし、回顧録と銘打たれていてもほとんど精神論だったりとか、本で世の中を知るのはなかなか難しいのである。だから表向きは晒されていない本当の生々しい実情を知りたいのであれば、社会に自らを投じて内部関係者にならなければならない。では、本を読むのが無駄かというとむしろ逆であろう。たいていの人はどこかの組織に帰属して、その固定された立場で社会経験するので、一通り体験したら一人前で、あとは惰性で変わらない日々を反復するという側面もある。とある分野で30年やってますというベテランがいるとして、熱心に勉強している人と、怠っている人ではかなり違う。世の中には経験しないとわからないことがあり、その一方で硬い本を読まないとわからないことがある、というと単純な結論になってしまうが、そういうことなのである。
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