わたしはこのところはるかぜ親子の観察をかなり懈怠しているから、あくまでわかりやすい事例として引き合いに出すのだが、自分が間違っていても言い返す人間がいるわけである。はるかぜババアはその典型だが、このババアだけの問題ではない。

素朴な喩え話をしてみるが、たとえばどこかに電車で行こうとしている人がいたとする。それを端から見て「タクシーの方がいい」という合理的な説明をしたとする。複数人で乗れば意外と高くないとか、電車だと遠回りでもタクシーなら近いということだってある。あるいは重い荷物の持ち運びを伴うなら、タクシーの方がいいことは時たまある。
この場合でも「電車の方がいい」と言い返す人間がいるわけである。「その重い荷物はどうするんだ」と言っても、「これくらい軽い」と言い張ったりするわけだ。
あくまで喩え話だから、電車とタクシーの比較論がしたいわけではない。たいていは電車の方が便利であるから、タクシーを頻繁に使うのは阿呆である。時たまタクシーの方が便利だというのがあり、そこが盲点になりがちだから喩えとして言ってるのだ。盲点を指摘されたときに「なるほど」と他人のアイデアを採用する柔軟性の問題である。

何でもかんでも言い返す病気に感染している人がおり、これはたいてい生涯通してまとわりつく痼疾である。
はるかぜババアは頭が悪すぎるので、言い返す内容に無理がありすぎるから欠点として顕著になるが、もう少し頭が回れば別の意味で厄介ということもある。

一言で言えば気性が激しい人間ということになるが、「言い返す」という行動が、マウント的に合理的であることもある。DQNであれば自分が阿呆なのを承知でクソみたいな言い返しをすることもあるだろうし、それでマウントが取れることもあるわけだ。猿知恵とはいえかなり強力である。人生で得をするための合理的行動とも言える。

こういう人が破滅するとしたら、やたらと反発する行動法則が、不合理な選択の累積となって跳ね返るからである。
無茶な言い返しをすること自体はマウント的に強いと言えるが、それを無茶な行動に繋げると、ツケが回ってくる。
だから無茶な言い返しはしても、現実に無茶はやらないというのが利口なのだろう。
そういう人物というと津田大介が思い浮かぶ。あの人間モドキは亀田一家のような言い返しをするのだが、その無茶な発言を行動に移すことはない。支離滅裂な言い返しで相手をマウントしつつも、その勢いで現実に無茶な暴走行為をして破滅するようなことはない。行動そのものは至って凡庸であり、危険人物と言われることもないわけだ。人間モドキが人間の女を何千人も抱いたり、われわれの通貨を溜め込んで遊蕩してみせるのだから、すごいといえばすごいのだろう。
海外ステマで大成功したドブ元が広島で凱旋公演を行うことになり、当日の朝から地元ではその話題で持ちきりであった。そのまったく同じ時刻、同じ広島で、その喧騒から離れたライブハウスでステージに上がろうとしている少女がいた。
鞘師里保である。
あらゆるものを失い、何も持たない彼女が、わざわざドブ元と同じ時刻にライブで対抗しようと考えたのである。
だが、ドブ元が所属するアミューズ社の妨害もあり、告知さえろくに出来ない有り様であった。
開演間際になっても観客席は無人であった。
遠くからメタラーの騒擾やパトカーのサイレンが聴こえてくるが、ここは至って無音であった。
ドブ元の会場には二万円の高額チケットを手にした観客が押し寄せているのに、鞘師里保のライブには誰も来ないのである。
人間は集団の中でこそ孤独を感じることがあるが、このライブハウスは空想でも悪夢でもなく、現実の空虚さそのものを体現する楼閣であった。決して山紫水明の森閑たる仙境ではなく、間違いなく俗世間に居合わせており、その重みを持った現実から疎外されているのである。遠くから聴こえる花火や爆竹のような音は幻聴ではあるまいし、実在する人間たちが耳障りな俗塵を撒き散らしており、そして鞘師里保にはまったく目を留めることなく通り過ぎていくのである。白骨として野ざらしにされ、蔑まれることすらなく、認識されない透明な骸として彷徨する、都市空間の孤独であった。
なんとか集めたバンドメンバーも、さすがにドブ元の権勢に打ちのめされていた。
鞘師里保に近づくのは躊躇われたが、バンドメンバーの一人が時計に目をやり、堪りかねて声を上げた。
「今日のライブは中止にしようよ」
しばらく静寂が訪れたが、鞘師里保は声を絞り出した。
「わたしは絶対にやりたい。やり遂げるためにわざわざこの日を選んだ」
「一人や二人しかいないようなライブならわたしだってやったこともあるよ。でも無観客はありえない。一人でもお客さんがいるならやるけど、誰もいないんじゃ中止しかないよ」
「でもまだ開演時間になってない。ひとりでも来てくれれば」
周りのメンバーは特に何も言わず、所在なさげに立ち尽くしていた。
リハを行う様子もなく、心ここにあらずという具合であり、開演時間になったらすぐに帰るという面持ちだった。
鞘師里保はドブ元と決着を付けるつもりで、わざわざこの日を選んだのだが、遠くの喧騒と、ここの無音の対比という現実を前にすると、さすがに心は折れていた。
「わたしはライブをやりたい。鞘師里保の存在証明としてこの時間にライブをやってみたいんだ」
「うんうん。一人でもお客さんがいるならやるけどね」
メンバーが投げやりに言いながら帰り支度を始めた頃、ライブハウスの支配人が現れた。
「どうやらお客さんが一人だけ来られたようです。みなさん中止にするみたいでしたが、どうします」
鞘師は決然として答えた。
「観客が一人でもいるならやる。おまえらもそう言っていたはずだ。あのインチキメタルと同じ時刻にこの鞘師里保が鞘師里保である所以を見せなければならない」
そして観客が会場に入ってきた。
「今日のライブは中止なのか。スケジュールをやりくりしてようやくたどり着いたのだが」
そうやって空っぽの空間を見回しているのは松岡茉優であった。
「まさか松岡茉優さんが来られるなんて……。無観客でライブをやるかどうか悩んでいたところでした。こうやって広島でメタルが盛り上がっている現実があり、それと隣り合わせの無人の空間で演じることに意義があるのか、そんなことを考えていました」
「正解はないが、楽譜は永遠でもライブはナマモノではないかな。誰も食べずに腐らせた料理が根源的に無価値というわけではないが」
「わたしも、ひとりでいいので聴いてほしいです。誰かに伝えたいです」
「ではこの松岡茉優が立ち会わせてもらおう。隣の馬鹿騒ぎのことは気にする必要もあるまい。ちはやふるで広瀬すずと共演したときのことがなぜか不思議と思い出される。鞘師里保の紅天女を見せてもらおうではないか」

その後、ドブ元のステマは限界に達し、一気にピークアウトした。
そして鞘師里保の時代が始まるのであった。
猟奇的な事件というものがある。
いじめはそれに当て嵌まらない。
加害者はだいたい社会的適応力が高いからである。
雑に言えばダーウィン的な自然淘汰である。
ダーウィンは突然変異からの進化という論を唱えているのだから、どんぐりの背比べの優劣を競い合う人間社会を論じたかったわけではないが、ここではその定義の厳密さに拘る必要はあるまい。

9人が殺されたとなると、異常心理として見做して、その加害者を糾弾するわけだが、9人の被害者の共通点として、「自殺したい」とネットで言っていたという続報を聴くと、「罪もない人を~」という普段の憤慨がトーンダウンしている可笑しさもある。
いつもの正義くんらしい激憤ではない。
ただの集団自殺のようなものか、臓器売買など闇社会のものか、そういう背景に好奇心を抱いているだけであり、殺害行為そのものへの怒りは薄い。
「津久井やまゆり園」の障がい者19名が殺害された事件とも通底する。
たいていは殺人事件が起きると、「もし俺の家族が殺されたら相手を必ず殺しに行く」と空想の仇討ちを誓う正義くんで溢れるが、なぜか「津久井やまゆり園」に対して正義くんは平然としており、こういう怒りの欠如こそが薄ら寒い。
つまり、正常人だと気取っている人間は自然淘汰原理の崇拝者なのだ。
もちろん、「敗者をわざわざ殺すのはよくない」という感想は持つだろうが、敗者は遺伝子を残さずに消えて然るべきと考えており、だからいじめてハブるくらいは平気であるし、自然淘汰原理自体は信奉しているのである。
命を絶ってトドメを刺すとなると異常者なのであろうし、いじめ抜いて排除しようというのが正常者ということにもなる。
だからいじめは軽犯罪ではなく凶悪犯罪だと主張するために、抗議の自殺をする被害者が出てきてしまう。

正常者と異常者の線引きは何ぞやというと、正常者はただの勝ち組思考なのだ。
だから、いじめという軽犯罪は日常的に行っているし、「津久井やまゆり園」の事件を聴いても、優生学的な観点から認めているわけである。
敗者の命を絶つことには賛成しないだろうが、そういう寸止めは優しさであるどころか、「殺人犯にまでなるつもりはない」といういじめ加害者の小利口な発想でもある。
つまり、殺人が最大の犯罪であるのは確かなのだが、「殺すまでもない」というカースト制度はまったく別の意味で凶悪である。
視野の広さはかなり先天的なものだから、訓練で劇的に向上することはない。
訓練の仕方を提案する人はいるし、わずかの改善ならあるとしても、鈍足が韋駄天にはなるまい。
ロンブーや津田大介のように、瞬間的に全体把握する野生の勘を身につけるのは無理である。
だが、瞬間的ではなく、時間を掛ければ全体をよく観ることは可能である。
要するに椅子取りゲームのように競い合う感じだと、ロンブーや津田のチンコがマンコに漏れ無く挿さっていて、立ち遅れた人間はどうにもならない。
だが、そういう時間制限がある場合ばかりではない。
ごく普通に周辺を見る場合は、時間を掛けていいこともあるのである。
落ち着いて、できるだけ全体をよく見ることはできる。
マンコと当意即妙のやり取りをするとなると、瞬時に読み取る野生の勘が必要なのだが、それだけの話である。
長考しても構わない、もしくは長考することで思索が深まることもある。
じっくり見渡しながら、いろんなことに気づいていくことは、視野の狭い人間でも可能である。
津田大介やロンブーは注意欠陥ではないから、発達障害的に上の空になることはないが、知能指数が低いから理詰めで長考することなど出来ないし、すぐに息切れする。
やたらと目端が利くかと思えば、所詮は知能指数100未満の猿知恵ということが多々あるのだ。
われわれは野人ではなくて人間なのだから、時間を掛けてじっくりと全体を見ればいいだけである。
これだとマンコには対応できないし、やはり瞬間的な全体把握こそが、津田やロンブーのようなビクトリーロードを歩むための武器なのだろうが、とはいえ、時間を掛けてじっくりと観察するのがまったくの無価値というわけではあるまい。
なぜ芸能界にはプロ野球のようなFA制度がないのかと考えると、 周防郁雄のようなヤクザが原因という簡単な問題ではなく、芸能人はかなり知名度に頼った存在であり、その芸名が大文字であるほど凄いのである。そして、その芸名が本名だとしても、事務所の作り上げた名前なのである。芸能界は一般人の関心をかなり侵食しており、熱病を起こさせる神経毒として深く根を張っている。さすがにネットの発達で、テレビメディアという業病から恢復しつつあるが、まったく縁が切れたわけでもない。野球選手であれば無名でも150キロ投げられれば価値があるが、芸能人はこれが不鮮明であり、やはり芸名の重み、もしくはそのアイコンの強度なのである。世間に名前を知られているというのは、それ自体が大文字の主語として重みを持ち、大文字であればあるほど歴史上の人物のようになってくる。全盛期のビートたけしなどは、本当に代わりがいないレベルだが、これだけ才能が突出しているのはかなり珍しいケースである。たいていは事務所の力で芸名が大文字になったというだけである。島田紳助のような実力者でも代役はたくさんいるわけである。明石家さんまは島田紳助の上位互換とも言えるが、さんまでさえ代役はいる。紳助とさんまで絶対的な差があるとは言えないからだ。やはり吉本興業ありきであり、ダウンタウン松本でもそれは同じである。交換可能という現実からすると、「代わりがいるならもっと自由に移籍させてやれ」という話もあるだろうが、やはり事務所の代紋あってこそだし、それだけプロモーションしたのだから破門状を回すという話にもなる。売り込んだ事務所こそが主役である。山口百恵は時代そのものであろうし、そして、あれだけの力量の持ち主は稀であるにせよ、代役がいないわけではあるまい。その幻の代役は、つまり現実化せずに潰えた未来であるから、時間の一回性に基いて、山口百恵が大文字の主語として時代を物語ることになるのだ。これが山口百恵ではなくピンク・レディーとなると、いくらでも交換可能だが、ピンク・レディーは山口百恵より価値が低いというわけでもない。山口百恵の代役を見つけるとなるとかなり大変なのに対して、ピンク・レディーは誰でもよいのが実情だが、それでもピンク・レディーが時代を席巻した規模の大きさは山口百恵と同等以上であり、山口百恵とピンク・レディーは大文字の主語として、ほぼ同じ重みがあるのである。自分で演奏も作曲も出来るミュージシャンだと本人の価値ということになるし、売り込みに成功したプロモーターが何かしら成功報酬を得る方式も考えられるだろうが、そうでなければ、「別の誰かに歌わせる」という選択肢もあったはずで、その選択肢を消して自らが傑作を歌わせてもらったのだから、事務所移籍は恩を仇で返すということにもなる。そこらの兄ちゃんや姉ちゃんが大文字の芸名を持ったからと言って、そんなのは芸能界のシステムありきなのである。
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