昭和というのは時代そのものが戦争であり、あれに比べたら最近の若者のマナーのよさに驚くのだが、これが親子連れとなると、だいたい父親の態度が悪い。先程もスターバックスに行ったらわたしより少し前に親子連れが入って、父親と娘という組み合わせだったが、スターバックスの構造としてよくあることで、列に並ばずにショーケースに並んだケーキを見たりしていたわけである。わたしは真っ直ぐレジに並んだのだが、しばらくして親子連れが私より前に注文する気満々でやってきたのでわたしは譲ったのである。それだけであり、ここでどちらに優先権があるのか目を三角にして論じる話でもなかろうが、最近の若者だったら(店内に先に入ったとはいえレジに並ばずにあちこち見ていたので)遠慮するというか、このところこういう体験を繰り返している。礼儀正しい若者から気を遣われてこちらが恐縮することはたくさんあるのだが、なぜか父親が子どもを連れていると図々しい。これが母親と子どもだけだとずいぶん周りに気を遣っているから、やはり父親が子どもを連れていると図々しいのである。二十歳かそこらの若者はマナーがよく、三十代くらいの若い父親が図々しいという具合だから世代の違いもあるし、昭和から平成に切り替わったのは1989年だが、90年代前半は景気回復を予想する論調も強かった。怪物のように膨れ上がった不良債権が、まだその野卑な欲望を手放すまいと悶絶していたのである。その多士済々たる旦那衆を世界から退場させる作業は重苦しいものであり、大立者の醜い素顔が梟首台に並ぶ光景に安堵するよりは、彼らの虚像の写し絵のような大不況がわれわれに降り掛かってきたのだから、名誉も栄光も英雄譚もなく、内戦の窮民のような苦役を体験したのである。足るを知るという知恵なのか欲望そのものを小さくして草食化したのは21世紀からであろう。30代だと昭和の空気を吸っている、もしくは昭和の断末魔の血腥い残り香に毒されながら育ったと言える。先程の親子連れも娘の分(ストロベリーのフラペチーノ)だけ注文して一緒に席に座るわけでもなく父親がウロウロしていたのだが、普段は普通であろうし、障害者ということはない。母親はママ友同士で神経を擦り減らしているのに対して、父親は傍若無人で偉そうというか、しかし、これが気になっているという話を聞かないので、わたしの感覚がおかしいのだろう。
人間はアンビバレントな生き物である。たとえば親が子どもの成功を願うかというと一筋縄ではいかない。あくまで親が自慢できる格好で子どもが成功しなければならない。いくら血縁があっても、自分のことではないのを自慢するのだから変な話であり、ここはそれなりの工夫が必要である。親としては当然ながら自分を追い抜いて欲しくないという心境にもなりうるし、これをこじらすと毒親と呼ばれるが、複雑といえば複雑だし、単純と言えば単純である。ともかく自慢できる状態になれば健全な家庭であるし、そうでなければ機能不全家庭ということになる。親の性格の問題でもあるし、育てやすい子どもとそうでない子どももいる。たとえば有村悠さんみたいな発達障害者が自分の子どもだとして、箍の外れた馬鹿だが東大にギリギリ合格できる程度の能力はあり、しかし普段の注意欠陥を極めた言動を含めると、自慢の息子にはなりそうもない。財務官僚になれるレベルなら降参するしかないが、東大で落ちこぼれるレベルとなると、追い抜かれるのは親として心穏やかではあるまいし、いっそのこと自分と同じ高卒になってくれとママンが考えたかもしれないわけだ。ともかく人間はアンビバレントなのである。温厚な気質の人は親子の葛藤を抱えづらいはずだが、有村悠さんのように、ママンも御本人も気性が激しいとなると、どちらがマウントを取るかという内輪揉めに明け暮れるのである。さて、有村悠さんは親子でクズというのがひとまずの結論なのだが、自慢しやすい子どもに恵まれて健全に生きている家庭の健全さとはなんぞやという疑問もあるし、金持ちだから銀行強盗をやらないのと同じ話であるから、有村悠さんの殺伐としたディストピアこそが本当の人間の生生しさである。人生の一回性、つまりサイコロを振る回数がとても少ないので、肥溜めに堕ちた人と堕ちなかった人ではまったく違う世界を生きているし、地球上をあまねく舐め尽くすように体験するわけではなく、指先で届く範囲を撫でる程度で寿命は尽きるから、一皮剥けば誰でも同じとは言い難いのだが、何にせよ有村悠さんはドストエフスキー的な暗澹たる世界に足を踏み入れてしまったので、人類の業病を深淵まで覗き込むしかないのである。このところ複数の枕を購入してゴロゴロし、脊椎動物としては生きてないようだ。悪事とは縁遠い人間であるのに極めて不健全な生活史を辿っており、いわゆる真面目系クズの典型となっているのだが、その階層にうずもれて死んでいくか、いわゆる運命愛というか、ひとりの表現者としてその実存を活写して抉り出すべき天命を知るかどうかであろうし、所詮は籠の中の鳥に過ぎない人間が自らの境涯を徹頭徹尾探究することによって人類の普遍性を悟ることもあるのである。
他人が審査員というのが現実の根幹であり、われわれはその審査員たる立場を利用して他人に高い点数を付けることも出来るし、露骨に低い点数を付けて名誉毀損になることもあれば、ブスをブスと正確に言うことで「事実でも名誉毀損」となったりする。物事は好意的な評価もできるし、悪意のある評価もできるし、われわれ審査員も情実や野次馬根性で掌返しを繰り返すのである。60点くらいのものに90点を付けるのはわりと喜ばれるし、寸毫たりとも名誉毀損ではない。他人に低い評価をするのはリアルの人間関係だといわゆる暴力的なマウントであるし、それに比べたらおべんちゃらの方がいいということらしい。お世辞にもいろいろあり、言われる側も本気にしてない社交辞令もあれば、悪魔的に心を掴んだというものもある。お世辞に攻略されて大金を騙し取られることもあるだろうし、もしくはイエスマンだけ取り巻きに従えて御本人が愉快というのは腐敗に付きものである。ともかくわれわれは他者評価に関してかなり悪質な審査員であり、人間が政治的動物たる所以でもある。「事実でも名誉毀損」という論法があるからには、ブスはブスという公平な評価も人間は望んでいないのだろうし、自分を美化したい業病は人類普遍のものらしい。このところ著名人がゴシップに難癖をつける風景がよく見られるが、ナタリーの提灯記事が版図を広げ人々の心を蚕食していくのは構わないらしい。軽はずみな口吻は誰からも顰蹙を買うし、ブスにブスだと平気で言う人でも顔に火傷のある人を見たら黙り込むであろうから、何かしら思想的決断の問題でもあるし、言うと言わないとでは顔の火傷の意味合いが違ってくるというか、火傷の事実は明々白々でも、言葉を発してそこに焦点を合わせるのは、ひとびとが気付かないふりをしている火傷を抉り出すことであるし、世界認識を一変させるものである。たとえばかつて左翼のフェミニストは男性のハゲをことさらに嘲笑していたが、ハゲはハゲとしても、それをわざわざ言うことで古めかしい男性の威厳を崩壊させようとしたのであろう。暴言とはテロルであり、それを無血革命と礼賛することもできようが、言及されないことで尊厳が守られるのであれば、わざわざ口に出すのは万死に値するとも言える。物事を総花的に褒めておけば普通に生きていくのに無難ではあろうが、とはいえ、それに耐えられないのも人間であり、故意に耳目を集めるべく言葉という刃物を他人に向けることもある。見て見ぬふりをするのが良いか悪いかという判断であるから、思想的に紙一重のものであるし、そのようなタブーに触れるのは政治犯なのである。
正常人は他人の物を隠すという嫌がらせを頻繁に行うし、これが咎められることはほとんどないのである。
おそらく物を隠すのは窃盗とは別なのであろうし、視野の広い人間が視野の狭い人間に対して行う攻撃なのである。
誰かの物を隠すというのは、やはり相手の視野が狭いと実行しやすそうだし、視野の広さで優位に立つ人間が行うのだと思われる。
「見えている範囲が広い」という如何にも正常な人間がやるのだから、正常な行為と呼ぶしかないのである。
物を隠される人間はおそらく「見落とし」が多いのであろうし、だからそれへの象徴的な罰として物を隠されるのである。
正常人が異常者に対して行う行為であるから、魔女狩り的な正義はある。
卑怯というわかりづらい言葉があるが、悪事ではない狡猾さと考えると、せいぜいそう呼ぶしかない。
では、見落としが多い人間に対して、なぜその理由を告げずに物を隠すという嫌がらせをするのかということだが、理由を説明しないのも正常人の特徴だからであろう。
大人になれば「おまえは見落としが多すぎる」と面と向かって言われることもあるだろうが、学校社会でそれはない。
それに、批判したら治るわけでもない、というか、本人が治したがらないだろうから、黙って嫌がらせなのである。
だいたい視野が狭いとなぜ悪いのかわからないし、社会人が同僚から文句を言われることはあるとしても、学校のクラスメートが批難するべき話ではない。
見落としが多いとしても、やはり学校社会だと純粋なコミュニケーションのズレであるし、職場でミスをするのとは話が違うから、改善を求めることもなく、嫌がらせで対応することになるのだと思われる。
招待されるのを待っているか、自ら主導権を握るべく招待する側に回るにせよ、この世は招待制である。社交辞令で招待して本当にやってきて困惑ということもあろうし、あるいは仲間に入れないタイプの人を温情で誘ってあげることもある。だから基準は曖昧であるし、スカル・アンド・ボーンズの入会資格のようなものではないが、やはり人間関係の基本は招待制である。自分から押し掛ける厚かましさも、昔ならそこそこ受容されていたはずだが、最近は人間関係の距離感に神経質であるし、かなり疎まれるようである。招待についてはずいぶん空気を読まなければならない。そもそも人間と人間はそんなに親しくないし、たとえば医者の集まりがあるとして、いかにもハイソに見えるとしても、もし仮に医学部を不合格になっていれば、その場にいなかったわけであるから、決して無垢な感情で友誼を結んでいるわけではなく、社会的で排他的な紐帯である。付き合う相手を選ばないと、おかしな人間に主導権を握られたり、経歴詐称の片棒を担いでしまうこともある。このような招待制を差別的だという向きもあるだろうし、そもそも差別とはなんぞやという話だが、とりあえず、人間個人そのものを見て判断すれば差別ではないというのが、今のところの考えらしい。これは自由主義社会での暫定的な結論であろうし、思想潮流の問題だから、未来にどうなるかはわからない。現状だと有村悠さんはあちこちで拒まれているが、出自で差別しているのではないし、ひとりの個人として明々白々たるドクズであるから避けて当然というロジックで済んでいる。だからこそエリート東大生は有村悠さんを容赦なく攻撃できたのだ。だが、世代が変わると差別問題となることも多いので、万が一有村悠さんが結婚して子供ができて、その子どもが殴る蹴るの暴行に耐えて生き延びたなら、差別利権で東大卒になれたりするかもしれない。あるいは差別として蒸し返されるには半世紀くらい必要な気もするので、その有村悠さんの子どもがさらに子どもを持って、たまたま家庭内暴力を生き延びたなら、育ちの悪いお爺さんが東大で差別され不登校になったとして、利権を貪るかもしれない。ともかく世の中は招待制であり、有村悠さんがどこに行っても乞食扱いされて締め出されるのは当然とされているが、この生々しいドクズが世の中から消えて抽象的な記号となったら、思想的な事案として名誉東大卒になったりするかもしれないわけだ。今だとまだ「家庭環境のせいにするな」と有村悠さんに説教できるし、根っからのドクズだと筆誅を加えるのが当たり前だが、いずれ時代が変化すれば、手足がない人間に車椅子を与えなかったという類の話になるかもしれないし、東大を首席で卒業する人が「かつて有村悠さんを差別して申し訳ありませんでした」と言わされるかもしれないし、クソみたいな名誉回復が行われるかもしれないのである。だが、今のところは自由主義で自己責任の社会であるから、有村悠さんのようなドクズの罪科を糺し、いろんなひとが門扉を閉ざすとしても、まったく悪いことではない。「なんでも他人のせいにする社会」になったら有村悠さんを必ず招待して大歓迎せねばならないが、今のところは自己責任社会なので、この手の人間へのバリアフリーを確保する必要もなく、招かざる客を拒否する自由主義を最大限に行使しなければならない。
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